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魔術的現代詩⑩『死語のレッスン』 [魔術的現代詩]
韻文か? 散文か? ――藪下明博
死語とは、単に使われなくなった言葉ではなく、時代の中から忽然として消えてしまった言葉、辞書に収録される暇もなく失われてしまった言葉であると、建畠晢は定義する。
ゆえに、死語には他のいかなる言葉にも期待できない夢が密かに宿っている筈だとも。
『死語のレッスン』
建畠晢
(思潮社・2013年7月25日・2,400円+税)
死語とは、単に使われなくなった言葉ではなく、時代の中から忽然として消えてしまった言葉、辞書に収録される暇もなく失われてしまった言葉であると、建畠晢は定義する。
ゆえに、死語には他のいかなる言葉にも期待できない夢が密かに宿っている筈だとも。
『死語のレッスン』
建畠晢
(思潮社・2013年7月25日・2,400円+税)
魔術的現代詩⑨『石目』 [魔術的現代詩]
魔術的現代詩⑧『ねじふりこ』 [魔術的現代詩]
ユートピアの構築。
あるいは、観念への祈祷。
郵便配達夫シュヴァルの理想宮や高橋峯吉の岩窟ホテルは、実現されたユートピアとして確かに顕在する。
ピラネージの『牢獄』でさえ、たとえ紙の上であるにせよ私たちの脳裏に深く焼き付いている。
江戸川乱歩の「パノラマ島」も、奇譚という形で永遠の空間を保持している。
サドやフーリエも、ある意味でのユートピストであった。
では、詩におけるユートピアとは?
断言するまでもなく、その数は無数に存在する。
むしろ、一度もユートピアを夢見ない詩人などいるであろうか?
詩を書こうと念ずる精神は、たとえ寄り道程度であっても、このユートピアの道を通り過ぎる。
問題は、どれだけ徹底した態度を貫くかということ。
『ねじふりこ』
千慶烏子
(沖積社・1996年5月27日・2,300円)
あるいは、観念への祈祷。
郵便配達夫シュヴァルの理想宮や高橋峯吉の岩窟ホテルは、実現されたユートピアとして確かに顕在する。
ピラネージの『牢獄』でさえ、たとえ紙の上であるにせよ私たちの脳裏に深く焼き付いている。
江戸川乱歩の「パノラマ島」も、奇譚という形で永遠の空間を保持している。
サドやフーリエも、ある意味でのユートピストであった。
では、詩におけるユートピアとは?
断言するまでもなく、その数は無数に存在する。
むしろ、一度もユートピアを夢見ない詩人などいるであろうか?
詩を書こうと念ずる精神は、たとえ寄り道程度であっても、このユートピアの道を通り過ぎる。
問題は、どれだけ徹底した態度を貫くかということ。
『ねじふりこ』
千慶烏子
(沖積社・1996年5月27日・2,300円)
魔術的現代詩⑦『タラマイカ偽書残闕』 [魔術的現代詩]
魔術的でないものを、魔術的に見せかけようと苦心した作品も、つまるところ魔術的意識から生じた副産物である。
あるいは、魔術的でないものを、無理やり魔術的に解釈しようとする行為も同じで、両者には大きな隔たりは見られない。
どちらにせよ、この二つは本来の魔術的意識からは明確に区別する必要がある。
ただし、害毒にならない限りにおいて、これら「遊び心」から生じるであろう副産物も、今のところ魔術的文学の範疇においても構わないだろう。
イースター島のモアイ像を見てもわかるとおり、当時の島民には微塵も「遊び心」はなかったなどと、だれが断言できるであろうか?
『タラマイカ偽書残闕』
谷川俊太郎
(書肆山田・1978年9月15日・1,200円)
あるいは、魔術的でないものを、無理やり魔術的に解釈しようとする行為も同じで、両者には大きな隔たりは見られない。
どちらにせよ、この二つは本来の魔術的意識からは明確に区別する必要がある。
ただし、害毒にならない限りにおいて、これら「遊び心」から生じるであろう副産物も、今のところ魔術的文学の範疇においても構わないだろう。
イースター島のモアイ像を見てもわかるとおり、当時の島民には微塵も「遊び心」はなかったなどと、だれが断言できるであろうか?
『タラマイカ偽書残闕』
谷川俊太郎
(書肆山田・1978年9月15日・1,200円)
魔術的現代詩⑥『空の庭、時の径』 [魔術的現代詩]
ブルトンは、「怖れこそは魔術的意識の第一の原動力だった」としている。(『魔術的芸術』P100)
そしてそれは、性的な心の奥底に結びついており、恐怖を払いのけるとともに、その恍惚たる性格を引き延ばそうとしたものだととも。
ここには、狼男の話をせがむ子供のように、感情の両義性が隠されているのだと。
この怖れに対応する一つは「儀式」≒「祈り」であり、これは宗教と魔術とに共通して見られるものだ。
ただし、前者は「諦念」を前提とし、後者は「反抗」を前提とするあまりにも人間的な行為である。
これらは、厳密に区別することを許さないが、どちらにせよ名付けようのない怖れや不安から、自らの力で解消しようとする思いが、「言葉」≒「詩」を書くという行為に内在するのではないだろうか?
『空の庭、時の径』
須永紀子
(書肆山田・2010年4月10日・2,200円)
そしてそれは、性的な心の奥底に結びついており、恐怖を払いのけるとともに、その恍惚たる性格を引き延ばそうとしたものだととも。
ここには、狼男の話をせがむ子供のように、感情の両義性が隠されているのだと。
この怖れに対応する一つは「儀式」≒「祈り」であり、これは宗教と魔術とに共通して見られるものだ。
ただし、前者は「諦念」を前提とし、後者は「反抗」を前提とするあまりにも人間的な行為である。
これらは、厳密に区別することを許さないが、どちらにせよ名付けようのない怖れや不安から、自らの力で解消しようとする思いが、「言葉」≒「詩」を書くという行為に内在するのではないだろうか?
『空の庭、時の径』
須永紀子
(書肆山田・2010年4月10日・2,200円)
魔術的現代詩⑤『アイヌ・母(ハポ)のうた』 [魔術的現代詩]
言葉と文字は、表裏一体なもののように見えて、実は本質的な相関関係はない。
言葉には文字は必要ないし、文字は言葉がなくても自立できる。
エリファス・レヴィは、想像力は言葉の適用の道具と言ったのであり、ここでは文字そのものにスポットはあてられない。
文字のない言語。
確かに文字は、言葉を広範囲に伝達するための合理的手法であるが、正確な手法であるかどうかには疑問が残る。
アイヌ民族は、豊かな言語体系を残したが、文字という文化は残さなかった。
不要だったのである。
しかしそれは、民族そのものの衰退に従い、言葉もやがて消滅しようとする運命をたどる。
『アイヌ・母(ハポ)のうた』
伊賀ふで著、麻生直子+植村佳弘編
(現代書館・2012年4月20日・2,400円)
言葉には文字は必要ないし、文字は言葉がなくても自立できる。
エリファス・レヴィは、想像力は言葉の適用の道具と言ったのであり、ここでは文字そのものにスポットはあてられない。
文字のない言語。
確かに文字は、言葉を広範囲に伝達するための合理的手法であるが、正確な手法であるかどうかには疑問が残る。
アイヌ民族は、豊かな言語体系を残したが、文字という文化は残さなかった。
不要だったのである。
しかしそれは、民族そのものの衰退に従い、言葉もやがて消滅しようとする運命をたどる。
『アイヌ・母(ハポ)のうた』
伊賀ふで著、麻生直子+植村佳弘編
(現代書館・2012年4月20日・2,400円)
魔術的現代詩④『魔術的芸術』メモ [魔術的現代詩]
魔術的現代詩③『黄泉幻記』 [魔術的現代詩]
魔術的現代詩②『悪母島の魔術師』 [魔術的現代詩]
現代詩における機能とはいったい何であろうか?
そもそも、機能などというものが存在するのであろうか?
「魔術的」か否かを問う前に、まずはこの疑問に取り掛かることから始めたい。
もしも現代詩に機能というものが存在するならば、それに見合った成果がなければ、それは機能的な面においての失敗作といえるだろう。
しかし、たとえ機能的な面での失敗作であっても、それが芸術的な面での失敗作とは限らない。
つまり、機能の根幹をなす「合理性」は、芸術的側面から見た場合には、まったくもって副次的な要素に他ならないからだ。
「魔術的」か否かについては、必ずしもそうとは言えない部分を残すが、まずは「機能的」かどうかという視点で、以下考察してみたい。
連詩『悪母島の魔術師』
新藤涼子・河津聖恵・三角みづ紀
(思潮社・2013年4月30日・2,000円)
そもそも、機能などというものが存在するのであろうか?
「魔術的」か否かを問う前に、まずはこの疑問に取り掛かることから始めたい。
もしも現代詩に機能というものが存在するならば、それに見合った成果がなければ、それは機能的な面においての失敗作といえるだろう。
しかし、たとえ機能的な面での失敗作であっても、それが芸術的な面での失敗作とは限らない。
つまり、機能の根幹をなす「合理性」は、芸術的側面から見た場合には、まったくもって副次的な要素に他ならないからだ。
「魔術的」か否かについては、必ずしもそうとは言えない部分を残すが、まずは「機能的」かどうかという視点で、以下考察してみたい。
連詩『悪母島の魔術師』
新藤涼子・河津聖恵・三角みづ紀
(思潮社・2013年4月30日・2,000円)
魔術的現代詩①『魔術的建築』の可能性 [魔術的現代詩]
『魔術的』という概念が頭から離れない。
文学における魔術性、とりわけ現代詩における魔術性について、以下取り留めもなく考察していきたいと思う。
「魔術的」という概念そのものが、捉えどころのない不明確な概念であるため、まずはイントロダクションとして、以下の論考を引用する。
これは、『建築雑誌』(2009年9月号)に掲載された論考の元原稿で、紙面の都合で半分ほど割愛した部分を含む。
アンドレ・ブルトンとジェラール・ルグランとの共著『魔術的芸術』に倣って論を進めたもので、終始「魔術的建築」という概念を念頭に書かれたもの。
これを「魔術的文学」に置き換えて読んだとしたらどうなるか?
果たしてどうなるかわからないが、まずは全文を引用する。(誤字脱字は、追々訂正の予定)
『魔術的芸術』〔普及版〕 アンドレ・ブルトン
監修:巌谷國士
訳:巌谷國士、鈴木雅雄、谷川渥、星野守之
(河出書房新社・2002年6月30日・3,800円)
文学における魔術性、とりわけ現代詩における魔術性について、以下取り留めもなく考察していきたいと思う。
「魔術的」という概念そのものが、捉えどころのない不明確な概念であるため、まずはイントロダクションとして、以下の論考を引用する。
これは、『建築雑誌』(2009年9月号)に掲載された論考の元原稿で、紙面の都合で半分ほど割愛した部分を含む。
アンドレ・ブルトンとジェラール・ルグランとの共著『魔術的芸術』に倣って論を進めたもので、終始「魔術的建築」という概念を念頭に書かれたもの。
これを「魔術的文学」に置き換えて読んだとしたらどうなるか?
果たしてどうなるかわからないが、まずは全文を引用する。(誤字脱字は、追々訂正の予定)
『魔術的芸術』〔普及版〕 アンドレ・ブルトン
監修:巌谷國士
訳:巌谷國士、鈴木雅雄、谷川渥、星野守之
(河出書房新社・2002年6月30日・3,800円)
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