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魔術的現代詩⑰『端境の海』 [魔術的現代詩]

妣島のメモリアル――藪下明博

端境の海.jpg



麻生直子詩集『足形のレリーフ』(二〇〇六・梧桐書院)が刊行されてから、すでに十二年の歳月が流れている。

その間『憶えていてくださいー奥尻島・地震と津波の記憶』(二〇〇八・梧桐書院)、伊賀ふで詩集『アイヌ・母ハポのうた』(二〇一二・現代書館)等の編著が出ているが、久しぶりの新詩集に興奮して、逸る気持ちを抑えながら何度も何度も読み返した。

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『端境の海』
麻生直子
(思潮社・2018年6月30日・二六〇〇円+税)


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前作『足形のレリーフ』のあとがきには(私がこれまで書いてきた詩や散文の多くは、島の岸辺に置き去りにした少女の心象風景と、表現の世界においての辺境の意味への失地回復であった)との記載がある。

本誌集のモチーフや感性もその延長線上にあることは間違いないが、島に置き去りにしてきた「少女」の心象風景は、いつしか激しい波のうねりに浄化され、齢を重ねた「女」としての心情吐露に変化している。

そして、その対象は(夕凪の水平線に足を捕らわれて/人間不信のままに没した)母への想い出に収斂され、そして何よりも自分自身の「春のおもいで」として昇華されている。

タイトルにある「端境はきょうの海」とは、麻生直子にとって、少なくとも大きく二つ存在するのであろう。

一つは、祖母や母と共に十二歳の春まで過ごし(船酔いにおびえながら/揺れる船室で/もっと激しく揺れていた)過去を背負う奥尻の海と、そして十九歳の春(東京での就職を決意して/ようやく異父兄の許しがでた四月はじめ)内地で(たたかう)ことを覚悟した、津軽海峡のそれである。

しかし、この二つの「端境の海」には、父親は幻影でしかない。

男手の代わりに働く母と祖母、心の拠り所となった異父兄の面影は濃いものの、戦争で死んだ〈はず〉の父の投影は薄く、かつての拘泥は見られない。

不躾とは思うが、少女から女に変貌する道程において(父に認知されない)子供の怨恨は、時間の経過とともに希釈されたのだろう。

巻末のエッセイ「母と漁火」は、全編に通底する郷愁のエッセンスが、無駄のない詩語によって奏でられた美しい散文詩でもある。

詩集『ペデストリアン・デッキの朝』(一九八七・潮流出版社)から「夜の船」の一部を再掲して、荒海に浮かぶ雪の島・奥尻島でのひたむきな亡き母を描いたメモリアルだ。

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夕暮れ、二、三トンの木造船に電灯が一つ。
釣り具と小さな手元用の行火あんかを持ち、船に乗り込んでいく耳の遠い母を見送るときは、子供心に、喩えようのない哀しみがみちた。


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奥尻島は一九九三年、北海道西南沖地震による津波の猛威に、甚大な被害を被った。

その直後、麻生直子は八〇歳の母を伴って、島へ見舞に行ったという。

もう少し時期がずれていれば、自分達も津波に遭遇していたかも知れないのだ。

本書にも、随所にその傷跡が見られる。

震災で全て失った男が、新たな家庭を築くものの、騙されて(俺にもまだ失うものがあったのだ)と呆然とする「妖薬を買う」など、また社会派詩人としての本領を発揮した「亀裂に棲む蟹の哀歌」や「悪魔の排泄物」を含む、全二六編の最新詩集である。


◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 41号(澪標 2018年10月20日 1,000円 税込み)より、再録。



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