魔術的現代詩⑳『声の海図』 [魔術的現代詩]
通底する不全感――藪下明博
あるいは、旅の詩集なのかもしれない。
旅をテーマにした断章の結合。
ただしこの旅は、詩人の記憶の中で構築された過去と、架空の出会いとによって認識された「場」の移動によって成立する。
朧げで危うい、まるで水上を浮遊するかのような、不安に駆られた旅であるはずだ。
*
『声の海図』
君野隆久
(思潮社・二〇一九年三月三十一日・二五〇〇円+税)
*
前作『(朝、廃区を、)』が出てから九年程が経過しているが、その詩風はやや饒舌を伴って変成しているようだ。
言葉が過剰になり、ディテールが濃密になった分、印象の固定化が進行している。
つまり、分かりやすくなったのだ。
これは、大きな変化である。
言葉の並べ替えに苦悩した前作に比べて、ようやく詩人の本領が発揮できたと理解すればいいのだろうか?
それとも未だに模索中の袋小路の最中にいるのか?
いずれにしても、その詩情は二十年前の第一詩集『二都』以来、一貫して変化のないものだと書評子は強く感じている。
冒頭の「操車場」は、かつて住んだことのある(鉄工所と旋盤工場ばかり)の町を、過去の残像としてエスキースしたものか。
*
(道路が錆で赤く染まっている/子供は鉄屑と泥で遊び/腹が空くと小麦粉と芋を甘く焦がして/焼いて食べている)
*
抜け出そうにも抜け出せない現実の生活の「場」に於いて(暮らすことは甘美な隔離だ)と諦念しつつも、いつか脱出、いや旅の始まりを試みる野心が潜在的に隠されている。
*
(夜中に煙草を吸おうとして窓を細くあけると/長い鉄の軋みが聴こえてくる)
*
とする独言が、始めと終わりに繰り返される索漠とした作品である。
そしてこの寂寥の旅の模様は、様々な街としての形質を変形させ記録されていく。
「塩田」「水の街」「冬の橋」「中庭」「T市場」「夢と木橋」「冬のホテル」「湖北」……。
とりわけ合成樹脂の冷たく乾いた部屋を想起させる「残像」と「声の海図」に見られるじめじめとした半島の市場とのコントラストが、強烈な漂泊感を扇動するメカニズムとして機能している。
*
(夜になると/朦朧として/路上の星をぐさぐさと踏みながら/それぞれの棟の非常灯のあかりをみて回った)
*
更に、この「街区」の孤独感は(その街はどこまで歩いてもアパートしかない/二階建て木造モルタルのアパートの連続)とリフレインされることで、どこまで行っても一人であるという事実を、認識せざるを得ない状況下にまで引きずり込む。
不安なのである。
さびしいのである。
孤独なのである。
全篇を通底するこの人間としての不全感こそが、君野隆久の詩の醍醐味であろうと思うのは、もはや書評子一人の感想ではあるまい。
*
他に、アンドレ・ブルトンが太っているのを見て、絶交を迫る老人が登場する「礫の街」や、ゴミ屋敷での詩人の死を描いた「窓の向こう」などは、異色な作品として特筆されよう。
また「(水が空気にある)」などの(調律の詩)が、殊更印象深く感じられた。
*
あとがきによれば、二〇一一年以降に書かれた「場所」をテーマに書かれたものであるらしく、全二十篇が収録されている。
初出は、須永紀子氏の個人詩誌『雨期』と、相沢育男氏の『ひょうたん』から選出されたものが多い。
蝸牛の歩みとはいえ、いつまでも真摯に歩み続けてもらいたい詩人である。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 44(澪標 2019年7月20日 1,000円 税込み)より、再録。
あるいは、旅の詩集なのかもしれない。
旅をテーマにした断章の結合。
ただしこの旅は、詩人の記憶の中で構築された過去と、架空の出会いとによって認識された「場」の移動によって成立する。
朧げで危うい、まるで水上を浮遊するかのような、不安に駆られた旅であるはずだ。
*
『声の海図』
君野隆久
(思潮社・二〇一九年三月三十一日・二五〇〇円+税)
*
前作『(朝、廃区を、)』が出てから九年程が経過しているが、その詩風はやや饒舌を伴って変成しているようだ。
言葉が過剰になり、ディテールが濃密になった分、印象の固定化が進行している。
つまり、分かりやすくなったのだ。
これは、大きな変化である。
言葉の並べ替えに苦悩した前作に比べて、ようやく詩人の本領が発揮できたと理解すればいいのだろうか?
それとも未だに模索中の袋小路の最中にいるのか?
いずれにしても、その詩情は二十年前の第一詩集『二都』以来、一貫して変化のないものだと書評子は強く感じている。
冒頭の「操車場」は、かつて住んだことのある(鉄工所と旋盤工場ばかり)の町を、過去の残像としてエスキースしたものか。
*
(道路が錆で赤く染まっている/子供は鉄屑と泥で遊び/腹が空くと小麦粉と芋を甘く焦がして/焼いて食べている)
*
抜け出そうにも抜け出せない現実の生活の「場」に於いて(暮らすことは甘美な隔離だ)と諦念しつつも、いつか脱出、いや旅の始まりを試みる野心が潜在的に隠されている。
*
(夜中に煙草を吸おうとして窓を細くあけると/長い鉄の軋みが聴こえてくる)
*
とする独言が、始めと終わりに繰り返される索漠とした作品である。
そしてこの寂寥の旅の模様は、様々な街としての形質を変形させ記録されていく。
「塩田」「水の街」「冬の橋」「中庭」「T市場」「夢と木橋」「冬のホテル」「湖北」……。
とりわけ合成樹脂の冷たく乾いた部屋を想起させる「残像」と「声の海図」に見られるじめじめとした半島の市場とのコントラストが、強烈な漂泊感を扇動するメカニズムとして機能している。
*
(夜になると/朦朧として/路上の星をぐさぐさと踏みながら/それぞれの棟の非常灯のあかりをみて回った)
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更に、この「街区」の孤独感は(その街はどこまで歩いてもアパートしかない/二階建て木造モルタルのアパートの連続)とリフレインされることで、どこまで行っても一人であるという事実を、認識せざるを得ない状況下にまで引きずり込む。
不安なのである。
さびしいのである。
孤独なのである。
全篇を通底するこの人間としての不全感こそが、君野隆久の詩の醍醐味であろうと思うのは、もはや書評子一人の感想ではあるまい。
*
他に、アンドレ・ブルトンが太っているのを見て、絶交を迫る老人が登場する「礫の街」や、ゴミ屋敷での詩人の死を描いた「窓の向こう」などは、異色な作品として特筆されよう。
また「(水が空気にある)」などの(調律の詩)が、殊更印象深く感じられた。
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あとがきによれば、二〇一一年以降に書かれた「場所」をテーマに書かれたものであるらしく、全二十篇が収録されている。
初出は、須永紀子氏の個人詩誌『雨期』と、相沢育男氏の『ひょうたん』から選出されたものが多い。
蝸牛の歩みとはいえ、いつまでも真摯に歩み続けてもらいたい詩人である。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 44(澪標 2019年7月20日 1,000円 税込み)より、再録。
2019-08-03 23:21
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コメント(2)
詩心が全くないのでノーチェックだった文献です。
しかし
〉アンドレ・ブルトンが太っているのを見て、絶交を迫る老人が登場する「礫の街」
ううううう。主治医からあと5キロ痩せろと言われているのに体形がムーミン化している私にはつらい記述。でも痩せたい。
>ゴミ屋敷での詩人の死を描いた「窓の向こう」
うちもゴミ屋敷化してるかも…紙媒体の物がおおすぎて。
詩の内容に関するコメントではまったくなくてごめんなさい。
by ヴェルデ (2019-08-04 01:43)
>ヴェルデさま
〉アンドレ・ブルトンが太っているのを見て、絶交を迫る老人が登場する「礫の街」
「体重が増えるような詩人は、信用できない」とするのが、絶好の理由です。(笑)
痩せていようが太っていようが、概して詩人はあまり信用してはならない位置におります。(笑)
by あおい君と佐藤君と宗男議員 (2019-08-04 22:26)