魔術的現代詩㉔『四角いまま』 [魔術的現代詩]
四角いからだを丸くする
詩は、観念だけで書かれるものではないこと、或いは、観念だけで読み解かれるものではないことを、改めて確認させられた詩集である。
⁂
『四角いまま』
武内健二郎
(ミッドナイト・プレス 二五〇〇円+税)
⁂
ここに収められた各詩篇には、固定化された表象がない。
詩人の体験からくる身体的記憶の発露とでも言うのか、誰しも思い当たるシチュエーションを描いていながら、そこに共通した言葉が思い浮かばない。
その未知数を具現化するのが「詩」であると言えばそれまでだが、これは凡庸な詩人には到底真似できる事ではない。
感性に頼らず、身体的経験だからこそ、言葉が軽快に踊り出すとでも言うのだろうか?
第一詩集であるという。
大変な詩人が隠されていたものだ。
⁂
マエミゴロ
ウシロミゴロ
ソデタケ
キタケ
呪文のように
祖母は呟きながら
幼いからだの
縦横に
物差しをあてていった
(「採寸」より)
⁂
極限に抑えた感情表現にも拘わらず、なぜか懐かしく、真綿のような情緒が湧き出てくる。
似たような経験は誰しもお持ちであろうが、印画紙にポジフィルムを焼き付けたように鮮明に、心の深奥が甦える。
シンプルな言葉で構成されていること、呪文のような擬音が配置されていること、そして完成されない経過途中の情景であること……
などが、この詩をより一層不可思議な眠りへと誘うのであろう。
この身体的映像感覚は、次の詩にも顕著にみられる。
⁂
浴衣からはみ出すまるく大きい背中だった
緩んだ腰紐が尻の上で
両手の動きをわずかに伝えた
幼い言葉で祖父に尋ねた
「何をしているの」
「茄子を煮ている」
船場言葉の抑揚と
出汁の匂いが
私をうっとりさせた
(「茄子を煮るひと」より)
⁂
幼い頃の自分が、茄子を煮る祖父の背中を見てうっとりするという、ただそれだけの情景だ。
しかし終盤は、現在の自分と幼子とのやり取りに置換され、記憶の連続性を示す映画的情景へと発展している。
本詩集は、Ⅰ四角いまま/Ⅱ遠く 見つめて/Ⅲ茄子を煮るひと/の三部構成となっているが、一貫した平易な言葉の選択と端的なスタイルはどの詩にも共通している(一つだけ散文的なものがあるが)。
日常の些事からインスピレーションを得たものが殆どであるが、例えば淫靡と言う日常も忘れてはいない。
⁂
約束を果たして
わたしの身は
結び目がほどけた
一本の紐のよう
まだ少し
捩れている
(「体位」全文)
⁂
大役を務めた後の緊張の弛緩と、まだ幾ばくか残存する己のテンションを描写したものだと言えば、そう言えなくもない。
しかし根底には明らかにエロスが潜んでいよう。
しかも爆発的なそれではない。
被虐的エロスとでも言うか、郷愁さえも感じてしまう。
また、ユーモアのセンスも切れがいい。
⁂
クラス長のO君は
沈黙を連発し疲れていたのだろう
(中略)
チンムク!
僕たちは 一瞬
たしかに
沈黙したのだった
(「沈黙について」より)
⁂
思わず吹き出してしまうだろう。
いや、沈黙してしまうに違いない。(笑)
そっと宝箱に隠しておきたい小品ばかり、全二十五篇。
四角いままの自分が、読後にはすっかり丸くなっていることに気付かされる。
何ともノスタルジックな詩集である。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 48(澪標 2020年7月20日 1,000円 税込み)より、再録。
詩は、観念だけで書かれるものではないこと、或いは、観念だけで読み解かれるものではないことを、改めて確認させられた詩集である。
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『四角いまま』
武内健二郎
(ミッドナイト・プレス 二五〇〇円+税)
⁂
ここに収められた各詩篇には、固定化された表象がない。
詩人の体験からくる身体的記憶の発露とでも言うのか、誰しも思い当たるシチュエーションを描いていながら、そこに共通した言葉が思い浮かばない。
その未知数を具現化するのが「詩」であると言えばそれまでだが、これは凡庸な詩人には到底真似できる事ではない。
感性に頼らず、身体的経験だからこそ、言葉が軽快に踊り出すとでも言うのだろうか?
第一詩集であるという。
大変な詩人が隠されていたものだ。
⁂
マエミゴロ
ウシロミゴロ
ソデタケ
キタケ
呪文のように
祖母は呟きながら
幼いからだの
縦横に
物差しをあてていった
(「採寸」より)
⁂
極限に抑えた感情表現にも拘わらず、なぜか懐かしく、真綿のような情緒が湧き出てくる。
似たような経験は誰しもお持ちであろうが、印画紙にポジフィルムを焼き付けたように鮮明に、心の深奥が甦える。
シンプルな言葉で構成されていること、呪文のような擬音が配置されていること、そして完成されない経過途中の情景であること……
などが、この詩をより一層不可思議な眠りへと誘うのであろう。
この身体的映像感覚は、次の詩にも顕著にみられる。
⁂
浴衣からはみ出すまるく大きい背中だった
緩んだ腰紐が尻の上で
両手の動きをわずかに伝えた
幼い言葉で祖父に尋ねた
「何をしているの」
「茄子を煮ている」
船場言葉の抑揚と
出汁の匂いが
私をうっとりさせた
(「茄子を煮るひと」より)
⁂
幼い頃の自分が、茄子を煮る祖父の背中を見てうっとりするという、ただそれだけの情景だ。
しかし終盤は、現在の自分と幼子とのやり取りに置換され、記憶の連続性を示す映画的情景へと発展している。
本詩集は、Ⅰ四角いまま/Ⅱ遠く 見つめて/Ⅲ茄子を煮るひと/の三部構成となっているが、一貫した平易な言葉の選択と端的なスタイルはどの詩にも共通している(一つだけ散文的なものがあるが)。
日常の些事からインスピレーションを得たものが殆どであるが、例えば淫靡と言う日常も忘れてはいない。
⁂
約束を果たして
わたしの身は
結び目がほどけた
一本の紐のよう
まだ少し
捩れている
(「体位」全文)
⁂
大役を務めた後の緊張の弛緩と、まだ幾ばくか残存する己のテンションを描写したものだと言えば、そう言えなくもない。
しかし根底には明らかにエロスが潜んでいよう。
しかも爆発的なそれではない。
被虐的エロスとでも言うか、郷愁さえも感じてしまう。
また、ユーモアのセンスも切れがいい。
⁂
クラス長のO君は
沈黙を連発し疲れていたのだろう
(中略)
チンムク!
僕たちは 一瞬
たしかに
沈黙したのだった
(「沈黙について」より)
⁂
思わず吹き出してしまうだろう。
いや、沈黙してしまうに違いない。(笑)
そっと宝箱に隠しておきたい小品ばかり、全二十五篇。
四角いままの自分が、読後にはすっかり丸くなっていることに気付かされる。
何ともノスタルジックな詩集である。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 48(澪標 2020年7月20日 1,000円 税込み)より、再録。
2020-10-21 21:14
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コメント(1)
ああーー詩は正直、よくわからないのですが、これは宗男議員の琴線に触れる詩なのでは、と思います。ユーモアとエロスの配合具合が絶妙で。
装丁もすてきですね。
by ヴェルデ (2020-11-13 21:47)