魔術的現代詩⑲『クリティカル=ライン』 [魔術的現代詩]
詩批評への批評の更なる批評――藪下明博
今日、詩誌や詩集の読者数が減少する中で、果たして詩批評の読者数とはどれ程のパーセンテージで存在するのであろうか?
――と、冒頭から身も蓋もない疑問が頭をよぎるが、仮にそのような「統計」が存在したとしても、昨今の世情を鑑みた場合、信頼性は限りなく危険域に達していることだろう。(笑)
*
『クリティカル=ライン』 詩論・批評・超=批評
添田馨
(思潮社・2018年12月25日・二八〇〇円+税)
*
それはともかく、本書は添田氏による二〇〇〇年以降に執筆された文学関係の評論を纏めたもので『現代詩年鑑』発表の「詩論展望」や『現代詩手帖』連載の「時評」、及び『びーぐる』連載の「詩論時評」を中心に編纂された三部構成となっている。
実に、三〇年ぶりの事だというが、言わば詩批評に対する批評論集で、こうなると読者数は天文学的逆数の境地に達すること請け合いである。
ここにその作品名まで上げる余裕はないが、本書で取り上げられた主な批評家・詩人を列挙すれば、吉本隆明、鮎川信夫、北川透、天沢退二郎、守中高明、瀬尾育生、近藤洋太、藤井貞和、鈴村和成、谷内修三、山田兼二、細見和之等々……
詩論時評という性格も相まってか、如何にも硬質な面々が連なる。
評者の論旨を丁寧に辿り、深長なる考察と的確な批評、そしてその真意を読者に伝達しようとする氏の手腕は、長年携わって来た詩論時評家としての役割を見事に遂行していよう。
年次ごとに出版された数多く(?)の詩論集の中から、一つの詩論(批評家)を選択するという作業そのものが、既に批評論として成立していることは自明の理である。
例えば先に書評子が列記した面々であっても、所収の数多くの人物の中から選んだ、もしくは選ばなかったという事実が、潜在的か否かも含め、いささか思惟的なものである筈だと明記しておきたい。
*
二〇一一年三月十一日の震災関係で特に興味深いのは、吉本隆明に対する添田氏の複雑な心境が、隠しても隠し切れない煩悶として描写されている点である。
震災以降亡くなるまでの間、吉本は一貫して「脱・原発」を批判した。
その整合された明解な論旨に対して、被災感情を払拭できない添田氏の理念上の葛藤が随所に散見される。
『私は自分の中のある種の「共同幻想」が、今回の原発事故でもっとも激しく毀損したという思いをどうにも禁じ得ない』(「死神の封葬」)。
そして、表題にもなっている「クリティカル=ライン」とは、数学的超難問とされる「リーマン仮説」に於ける「臨界線」のことを言い「絶対数学に対する位置に〝絶対詩学〟の発見が構想」展開されたものだと氏は主張する。
数学に於ける素数と詩作品の類同性に着眼した、全く以て新しい意欲的な詩論であろう。
ただし、理数系の書評子にとっても難解で、正直その詳細が理解できたとは言い難い。
そもそも数学のプリミティブな四分野「数論」「音楽」「幾何学」「天文学」を「数」と「量」に分け、次にそれが「静」と「動」とのマトリックスで表したものに対し「詩学」「詩論」「詩史」「批評」のそれぞれを当て嵌め、更に「数」を「質(言葉)」に置換するという分類方法は、やや論理に飛躍が見えるだろう。
「数」という基礎単位に対して「質(言葉)」が対比するならば、言葉は常に同一の意味合いを持つ普遍的な存在になるのではないだろうか?
もしくは、言語は唯一「詩」に於いてのみ存在するのだと言いたいのか?
いずれにしても論証不可能という点に於いて、どこか「魔術的」概念にも通底しているのかもしれない。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 43号(澪標 2019年4月20日 1,000円 税込み)より、再録。
今日、詩誌や詩集の読者数が減少する中で、果たして詩批評の読者数とはどれ程のパーセンテージで存在するのであろうか?
――と、冒頭から身も蓋もない疑問が頭をよぎるが、仮にそのような「統計」が存在したとしても、昨今の世情を鑑みた場合、信頼性は限りなく危険域に達していることだろう。(笑)
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『クリティカル=ライン』 詩論・批評・超=批評
添田馨
(思潮社・2018年12月25日・二八〇〇円+税)
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それはともかく、本書は添田氏による二〇〇〇年以降に執筆された文学関係の評論を纏めたもので『現代詩年鑑』発表の「詩論展望」や『現代詩手帖』連載の「時評」、及び『びーぐる』連載の「詩論時評」を中心に編纂された三部構成となっている。
実に、三〇年ぶりの事だというが、言わば詩批評に対する批評論集で、こうなると読者数は天文学的逆数の境地に達すること請け合いである。
ここにその作品名まで上げる余裕はないが、本書で取り上げられた主な批評家・詩人を列挙すれば、吉本隆明、鮎川信夫、北川透、天沢退二郎、守中高明、瀬尾育生、近藤洋太、藤井貞和、鈴村和成、谷内修三、山田兼二、細見和之等々……
詩論時評という性格も相まってか、如何にも硬質な面々が連なる。
評者の論旨を丁寧に辿り、深長なる考察と的確な批評、そしてその真意を読者に伝達しようとする氏の手腕は、長年携わって来た詩論時評家としての役割を見事に遂行していよう。
年次ごとに出版された数多く(?)の詩論集の中から、一つの詩論(批評家)を選択するという作業そのものが、既に批評論として成立していることは自明の理である。
例えば先に書評子が列記した面々であっても、所収の数多くの人物の中から選んだ、もしくは選ばなかったという事実が、潜在的か否かも含め、いささか思惟的なものである筈だと明記しておきたい。
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二〇一一年三月十一日の震災関係で特に興味深いのは、吉本隆明に対する添田氏の複雑な心境が、隠しても隠し切れない煩悶として描写されている点である。
震災以降亡くなるまでの間、吉本は一貫して「脱・原発」を批判した。
その整合された明解な論旨に対して、被災感情を払拭できない添田氏の理念上の葛藤が随所に散見される。
『私は自分の中のある種の「共同幻想」が、今回の原発事故でもっとも激しく毀損したという思いをどうにも禁じ得ない』(「死神の封葬」)。
そして、表題にもなっている「クリティカル=ライン」とは、数学的超難問とされる「リーマン仮説」に於ける「臨界線」のことを言い「絶対数学に対する位置に〝絶対詩学〟の発見が構想」展開されたものだと氏は主張する。
数学に於ける素数と詩作品の類同性に着眼した、全く以て新しい意欲的な詩論であろう。
ただし、理数系の書評子にとっても難解で、正直その詳細が理解できたとは言い難い。
そもそも数学のプリミティブな四分野「数論」「音楽」「幾何学」「天文学」を「数」と「量」に分け、次にそれが「静」と「動」とのマトリックスで表したものに対し「詩学」「詩論」「詩史」「批評」のそれぞれを当て嵌め、更に「数」を「質(言葉)」に置換するという分類方法は、やや論理に飛躍が見えるだろう。
「数」という基礎単位に対して「質(言葉)」が対比するならば、言葉は常に同一の意味合いを持つ普遍的な存在になるのではないだろうか?
もしくは、言語は唯一「詩」に於いてのみ存在するのだと言いたいのか?
いずれにしても論証不可能という点に於いて、どこか「魔術的」概念にも通底しているのかもしれない。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 43号(澪標 2019年4月20日 1,000円 税込み)より、再録。
2019-05-13 15:43
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