魔術的現代詩㉓『胞衣』 [魔術的現代詩]
穢れの無い無垢な願い
晩年の芥川龍之介の作品に「年末の一日」という小品がある。
友人の新聞記者に夏目漱石の墓を教えようと墓地へ行くが、それがなかなか見つからない。
ようやく墓地掃除の女に聞いて墓参を済ませるが、その帰路に、東京胞衣会社と書いた箱車を見つける。……
⁂
『胞衣』
作田教子
(思潮社 二二〇〇円+税)
⁂
ここでの「胞衣」という言葉は、かなり強烈なイメージを伴う。
少なくとも芥川の時代には、ある種の禁忌を伴ったであろうことは想像に難くない。
本詩集は、まさにその「胞衣」をタイトルに採用したものだ。
これだけでも、初見の印象は強く脳裏に残存する。
詩人の意図が、そこにあるのかどうかは不明だが、表題作の内容は禁忌とは縁も所縁も感じられない。
子供たちを包み込む神の慈愛と奇跡を孕んだ、象徴としての「胞衣」を描いている。
換言すれば、深遠なる母性の視点と言えよう。
⁂
神様は時々どこにもいないふりをする
いつも空腹を抱えている
空き缶になって
道にひしゃげて転がっていたりする
風に舞っていたりする
狂気を普通に演じたりする
声高に「革命を!」と叫ぶ大人の足元に
影になっていたりする
(「胞衣」より)
⁂
幾つかの詩篇は、しばしば男の子の視点で語られている。
「ぼく」もしくは「ぼくたち」という一人称だが、まぎれもなくここには、詩人自らの過去・現在が投影されていよう。
父や母、祖母と云った身近な家族関係に言及しているが、それは心象世界の環境であり詩人の幻影なので、現実のものと解するのは早計であろう。
⁂
ぼくに似ている背中
ぼくが捨てられた記憶を
きみはその耳で聴いていたはず
父や母の顔を忘れたのに
その声だけが身体のどこかに残っていることも
きみはずっと知っていたはず
(「星も樹も風も」より)
⁂
詩集全編に通底するものは、取り返しのつかない過去の慙愧と贖罪が、記憶の奥深くで交錯して"混沌とした寂寥感"となって溢れ出ていることだ。
そして、そこから生まれる希望をも強烈に発信されている。
何もかも手放しで身を委ねることが赦されない、自責を背負った子供(心)の祈りとでも言えばいいのか?――これは作田の詩が「ぼく」の視点で代弁されることにも関係するに違いない。
⁂
母さんは、雨が降り続いて濁流になった川に、橋の上からいろんなものを棄てました。ぼくがまだとても小さな頃でした。
(中略)
母さんは、ぼくを抱き上げました。
無言でぼくを抱きしめました。
そしてぼくを
川の暗い激しい希望の流れのなかに
投げ込みました……
(「暗い川の希望へ」より)
⁂
ここで「ぼく」が投げ込まれるのは、激しい"希望"の流れであることを見逃してはならない。
一見残酷に映るこの母親像は、未来の創造主としての存在なのであろう。
過去の未成熟な「ぼく」は、この時から既にいなくなった存在として存在しているのだ。
かつて倉橋健一は『耳の語法』(思潮社/二〇〇五年)の栞の中で、作田教子の詩を心理詩(心的連想詩)と評したことがある。
十四年を経過した現在でも、どうやらその傾向は変わっていないようだ。
作田の詩は、いわば韻文と散文の混合詩のようなもので、モノローグとしての語り口調が実に巧妙である。
他に「貸本屋さん」、「柱時計の店」など、ノスタルジーに満ちた散文作品が含まれる。
全十九篇、穢れのない「胞衣」に包まれた無垢な詩群である。
晩年の芥川龍之介の作品に「年末の一日」という小品がある。
友人の新聞記者に夏目漱石の墓を教えようと墓地へ行くが、それがなかなか見つからない。
ようやく墓地掃除の女に聞いて墓参を済ませるが、その帰路に、東京胞衣会社と書いた箱車を見つける。……
⁂
『胞衣』
作田教子
(思潮社 二二〇〇円+税)
⁂
ここでの「胞衣」という言葉は、かなり強烈なイメージを伴う。
少なくとも芥川の時代には、ある種の禁忌を伴ったであろうことは想像に難くない。
本詩集は、まさにその「胞衣」をタイトルに採用したものだ。
これだけでも、初見の印象は強く脳裏に残存する。
詩人の意図が、そこにあるのかどうかは不明だが、表題作の内容は禁忌とは縁も所縁も感じられない。
子供たちを包み込む神の慈愛と奇跡を孕んだ、象徴としての「胞衣」を描いている。
換言すれば、深遠なる母性の視点と言えよう。
⁂
神様は時々どこにもいないふりをする
いつも空腹を抱えている
空き缶になって
道にひしゃげて転がっていたりする
風に舞っていたりする
狂気を普通に演じたりする
声高に「革命を!」と叫ぶ大人の足元に
影になっていたりする
(「胞衣」より)
⁂
幾つかの詩篇は、しばしば男の子の視点で語られている。
「ぼく」もしくは「ぼくたち」という一人称だが、まぎれもなくここには、詩人自らの過去・現在が投影されていよう。
父や母、祖母と云った身近な家族関係に言及しているが、それは心象世界の環境であり詩人の幻影なので、現実のものと解するのは早計であろう。
⁂
ぼくに似ている背中
ぼくが捨てられた記憶を
きみはその耳で聴いていたはず
父や母の顔を忘れたのに
その声だけが身体のどこかに残っていることも
きみはずっと知っていたはず
(「星も樹も風も」より)
⁂
詩集全編に通底するものは、取り返しのつかない過去の慙愧と贖罪が、記憶の奥深くで交錯して"混沌とした寂寥感"となって溢れ出ていることだ。
そして、そこから生まれる希望をも強烈に発信されている。
何もかも手放しで身を委ねることが赦されない、自責を背負った子供(心)の祈りとでも言えばいいのか?――これは作田の詩が「ぼく」の視点で代弁されることにも関係するに違いない。
⁂
母さんは、雨が降り続いて濁流になった川に、橋の上からいろんなものを棄てました。ぼくがまだとても小さな頃でした。
(中略)
母さんは、ぼくを抱き上げました。
無言でぼくを抱きしめました。
そしてぼくを
川の暗い激しい希望の流れのなかに
投げ込みました……
(「暗い川の希望へ」より)
⁂
ここで「ぼく」が投げ込まれるのは、激しい"希望"の流れであることを見逃してはならない。
一見残酷に映るこの母親像は、未来の創造主としての存在なのであろう。
過去の未成熟な「ぼく」は、この時から既にいなくなった存在として存在しているのだ。
かつて倉橋健一は『耳の語法』(思潮社/二〇〇五年)の栞の中で、作田教子の詩を心理詩(心的連想詩)と評したことがある。
十四年を経過した現在でも、どうやらその傾向は変わっていないようだ。
作田の詩は、いわば韻文と散文の混合詩のようなもので、モノローグとしての語り口調が実に巧妙である。
他に「貸本屋さん」、「柱時計の店」など、ノスタルジーに満ちた散文作品が含まれる。
全十九篇、穢れのない「胞衣」に包まれた無垢な詩群である。
2020-10-14 05:04
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