魔術的現代詩㉒『郵便局まで』 [魔術的現代詩]
詩人――或いは、詩境の総括
前作『川・海・魚等に関する個人的な省察』(砂子屋書房)は、まるで世捨て人を演じているかのように、一人、自然の中に融合し、釣竿と戯れる哲人・ソクラテス然としたものであった。
あの東日本大震災のことさえ一切触れず「私は詩をできるだけ現実から遠い位置に避難させ」ていたという。
(同書/あとがきより)
⁂
『郵便局まで』
八木幹夫
(ミッドナイト・プレス 二三〇〇円+税)
⁂
本詩集は、それから四年の歳月が流れているが、どうやら事情は少し変わったようだ。
もはや「あとがき」は省略され、解釈は個々の作品の中にあるとでも言うように、詩作に至る経緯については一切触れていない。
⁂
いくつもの川を渡った
いくつもの夢を渡った
いくつもの橋を渡った
妖しいひとと船にゆられた
狂気のひとと夢にもつれた
橋の上ではひきかえそうと
なんども思ったが
(中略)
⁂
結びを飾る「冬のうた」は、このような詩人の心境を綴ったものであろう。
また、あとがきに匹敵すると言っても良いものだ。
⁂
女がやってきて
この男が私を殺したのだという
おまえは生きているじゃないかと
恐ろしい形相でいう私がいる
⁂
と、続き
⁂
小説はまだ終わらない
⁂
と、結ばれる。
決して平穏無事な半生を営んで来たのではないことを示唆するものだが、まだ詩人としての執着は捨てていない。
いや、寧ろモチベーションを高めてさえいる感が伺える。
詩集全体に「老い」というフレーズが目立つのも、幾つかの艱難辛苦を味わって来たその証しだろう。
鬼籍に入った詩人へのオマージュも、これとは無縁のことではない。
長田弘、辻征夫、辻井喬、井上輝夫、西脇順三郎、清水昶など、どれも深い哀惜を込めた美しい詩篇に昇華されている。
とりわけ西脇順三郎に触発された「ゲップする牛」は、八木には珍しくペダンチックな作品で、就中異彩を放っている。
そもそも表題作「郵便局まで」は(妻を早くに失い/老いを迎えた詩人)長津功三良氏への追想である。
詩集への礼状を懐に入れ、雪の中に郵便局へ投函しに行くという、ただそれだけの情景を描いたものだ。
ここには何の事件性も見当たらないが、雪に残った自分の足跡に、人生の歓喜を映し出すという、見事な抒情の捉え方に感服する。
詩人は、これまで避けてきた社会的、もしくは個人的な事象(身体的なこと)や家族のこと(特に孫への愛着)なども、本詩集では饒舌に吐露している。
果ては時空を超えた万葉の彼方の現世や、人類創世の夢にまでも。
⁂
見えたのは火の子 日ノ御子
天子(天使)さまが立っている
あれは火の粉
また落ちていく白燐弾 ひひひひひ
なぜ 殺すのか ヒトがヒトを
「ひさかた」
⁂
まるで堰を切ったかのように憤りが止まらない。
これほどまでに直截な怒りを込めた詩は、八木には珍しいことである。
さて「遠景―影の男―」に言及しなくてはなるまい。
⁂
ゴムのように伸びる時間がずんずん引っ張られて
過去のある一点からいきなりぷつんと切れた
⁂
と始まるこの詩も、八木個人の過去を取り上げたものだ。
オヤジの命日を(死にいい)と逆さに読む滑稽さと同時に、死の瞬間の、肉体から離れ高く俯瞰する魂の肉声までを見事に描写している。
これを書くことで、詩人の心はどれほど救われたことであろうか。
八木は、己の詩人生をこの一篇に賭したのかも知れない。
まるで、八木幹夫の詩境の総括とでも言うかのように。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 46(澪標 2020年1月20日 1,000円 税込み)より、再録。
前作『川・海・魚等に関する個人的な省察』(砂子屋書房)は、まるで世捨て人を演じているかのように、一人、自然の中に融合し、釣竿と戯れる哲人・ソクラテス然としたものであった。
あの東日本大震災のことさえ一切触れず「私は詩をできるだけ現実から遠い位置に避難させ」ていたという。
(同書/あとがきより)
⁂
『郵便局まで』
八木幹夫
(ミッドナイト・プレス 二三〇〇円+税)
⁂
本詩集は、それから四年の歳月が流れているが、どうやら事情は少し変わったようだ。
もはや「あとがき」は省略され、解釈は個々の作品の中にあるとでも言うように、詩作に至る経緯については一切触れていない。
⁂
いくつもの川を渡った
いくつもの夢を渡った
いくつもの橋を渡った
妖しいひとと船にゆられた
狂気のひとと夢にもつれた
橋の上ではひきかえそうと
なんども思ったが
(中略)
⁂
結びを飾る「冬のうた」は、このような詩人の心境を綴ったものであろう。
また、あとがきに匹敵すると言っても良いものだ。
⁂
女がやってきて
この男が私を殺したのだという
おまえは生きているじゃないかと
恐ろしい形相でいう私がいる
⁂
と、続き
⁂
小説はまだ終わらない
⁂
と、結ばれる。
決して平穏無事な半生を営んで来たのではないことを示唆するものだが、まだ詩人としての執着は捨てていない。
いや、寧ろモチベーションを高めてさえいる感が伺える。
詩集全体に「老い」というフレーズが目立つのも、幾つかの艱難辛苦を味わって来たその証しだろう。
鬼籍に入った詩人へのオマージュも、これとは無縁のことではない。
長田弘、辻征夫、辻井喬、井上輝夫、西脇順三郎、清水昶など、どれも深い哀惜を込めた美しい詩篇に昇華されている。
とりわけ西脇順三郎に触発された「ゲップする牛」は、八木には珍しくペダンチックな作品で、就中異彩を放っている。
そもそも表題作「郵便局まで」は(妻を早くに失い/老いを迎えた詩人)長津功三良氏への追想である。
詩集への礼状を懐に入れ、雪の中に郵便局へ投函しに行くという、ただそれだけの情景を描いたものだ。
ここには何の事件性も見当たらないが、雪に残った自分の足跡に、人生の歓喜を映し出すという、見事な抒情の捉え方に感服する。
詩人は、これまで避けてきた社会的、もしくは個人的な事象(身体的なこと)や家族のこと(特に孫への愛着)なども、本詩集では饒舌に吐露している。
果ては時空を超えた万葉の彼方の現世や、人類創世の夢にまでも。
⁂
見えたのは火の子 日ノ御子
天子(天使)さまが立っている
あれは火の粉
また落ちていく白燐弾 ひひひひひ
なぜ 殺すのか ヒトがヒトを
「ひさかた」
⁂
まるで堰を切ったかのように憤りが止まらない。
これほどまでに直截な怒りを込めた詩は、八木には珍しいことである。
さて「遠景―影の男―」に言及しなくてはなるまい。
⁂
ゴムのように伸びる時間がずんずん引っ張られて
過去のある一点からいきなりぷつんと切れた
⁂
と始まるこの詩も、八木個人の過去を取り上げたものだ。
オヤジの命日を(死にいい)と逆さに読む滑稽さと同時に、死の瞬間の、肉体から離れ高く俯瞰する魂の肉声までを見事に描写している。
これを書くことで、詩人の心はどれほど救われたことであろうか。
八木は、己の詩人生をこの一篇に賭したのかも知れない。
まるで、八木幹夫の詩境の総括とでも言うかのように。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 46(澪標 2020年1月20日 1,000円 税込み)より、再録。
2020-02-28 22:26
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