『バス停に立ち宇宙船を待つ』 [その他詩集]
孤独を感じる詩――藪下明博
昔、友部正人と友川かずきを混同していた時期があった。
……なんて、冒頭から笑えない冗談で申し訳ないが、同じ「友」という苗字を持つ同い年の二人は、歌い方も声も詩風も違うフォーク歌手だけれど、レコードのジャケットを見る限り、その風貌はよく似ていた。
ついでに言うならば、どちらもかつてはかなりの男前であった。
『バス停に立ち宇宙船を待つ』
友部正人
(ナナロク社・2015年3月1日・一五〇〇円+税)
そんな昔話はどうでもいいが、友部正人の詩集が出たというので、さっそく手にとって見た。
ポケットに入る持ち運び便利な新書版サイズ。
装丁は質素だが小口は金付けされていて、なかなかセンスがいい。
5年ぶりの新詩集だという。
フォーク歌手、いやシンガー・ソングライター(もはやこの二つの言葉は死語に化したか?)の出す詩集には、今まで大きく期待を裏切られてきた。
あれほど熱く心酔し、涙して聴いた歌だったのに、メロディーが外され言葉だけが独立してしまった途端、どうにも言いようのない喪失感に襲われてしまうのだ。
これは詩ではない……と。
たとえ素晴らしい歌であっても、必ずしも素晴らしい詩で構成されているとは限らない。
当たり前のことであるが、当時の自分はそれが良く分からなかった。
今回の友部正人の詩集について、これらの詩に曲がつけられる予定のものか、あるいはすでに付けられているものなのか?
その辺の事情は久しく彼の歌から遠ざけていたのでよく知らない。
しかし、どれもこれも一篇の「詩」として立派に成立していることは確かだろう。
中には曲を意識したリフレインを多用したものや、語りを基調として成り立つメロディーのない「歌」なども見られるが、これが友部正人の特徴といえば特徴なので、そこは好き嫌いがはっきり分かれることも否めない。
*
英語が散らかした部屋に
日本語がやって来た
日本語はテーブルの上の本を開きこう言った
「歌は語れ、詩は歌え」
(『朝から英語のお客さん』)
*
詩にメロディーを付けて歌うこと、あるいは抑揚をつけて朗読することについて、友部の詩に触れる際にいつも感じることがある。
果たして、声を出して歌う必要があるのだろうか?……と。
こんなことを言っては大変恐縮なのだが、黙読している時さえあの声が頭にこびりついて離れない。
賛否はあろうが、これもフォーク歌手という側面、いや正面を持った詩人に与えられた運命だろう。
*
バナナは真夜中でも黄色かった
リンゴは真夜中なのに赤かった
ぼくは果物屋の前にいた
ぼくが見つけた場所はそこだった
目に見えないバスが近づいて来る
(『宇宙船』)
*
多くのフォーク歌手がそうだったように、友部正人も少なからず反戦を歌ってきた。
直接的なメッセージを発するものもあれば、間接的に訴えるものもある。
しかし、不本意だろうが友部正人の本質はそこには無いような気がする。
だから『八時十五分』のような詩はどうしても好きになれない。
その代わり『左足と右足』のような、孤独を感じることが出来る詩は大好きである。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ 28号』 (澪標・2015年7月20日・1,000円+税) より再録
昔、友部正人と友川かずきを混同していた時期があった。
……なんて、冒頭から笑えない冗談で申し訳ないが、同じ「友」という苗字を持つ同い年の二人は、歌い方も声も詩風も違うフォーク歌手だけれど、レコードのジャケットを見る限り、その風貌はよく似ていた。
ついでに言うならば、どちらもかつてはかなりの男前であった。
『バス停に立ち宇宙船を待つ』
友部正人
(ナナロク社・2015年3月1日・一五〇〇円+税)
そんな昔話はどうでもいいが、友部正人の詩集が出たというので、さっそく手にとって見た。
ポケットに入る持ち運び便利な新書版サイズ。
装丁は質素だが小口は金付けされていて、なかなかセンスがいい。
5年ぶりの新詩集だという。
フォーク歌手、いやシンガー・ソングライター(もはやこの二つの言葉は死語に化したか?)の出す詩集には、今まで大きく期待を裏切られてきた。
あれほど熱く心酔し、涙して聴いた歌だったのに、メロディーが外され言葉だけが独立してしまった途端、どうにも言いようのない喪失感に襲われてしまうのだ。
これは詩ではない……と。
たとえ素晴らしい歌であっても、必ずしも素晴らしい詩で構成されているとは限らない。
当たり前のことであるが、当時の自分はそれが良く分からなかった。
今回の友部正人の詩集について、これらの詩に曲がつけられる予定のものか、あるいはすでに付けられているものなのか?
その辺の事情は久しく彼の歌から遠ざけていたのでよく知らない。
しかし、どれもこれも一篇の「詩」として立派に成立していることは確かだろう。
中には曲を意識したリフレインを多用したものや、語りを基調として成り立つメロディーのない「歌」なども見られるが、これが友部正人の特徴といえば特徴なので、そこは好き嫌いがはっきり分かれることも否めない。
*
英語が散らかした部屋に
日本語がやって来た
日本語はテーブルの上の本を開きこう言った
「歌は語れ、詩は歌え」
(『朝から英語のお客さん』)
*
詩にメロディーを付けて歌うこと、あるいは抑揚をつけて朗読することについて、友部の詩に触れる際にいつも感じることがある。
果たして、声を出して歌う必要があるのだろうか?……と。
こんなことを言っては大変恐縮なのだが、黙読している時さえあの声が頭にこびりついて離れない。
賛否はあろうが、これもフォーク歌手という側面、いや正面を持った詩人に与えられた運命だろう。
*
バナナは真夜中でも黄色かった
リンゴは真夜中なのに赤かった
ぼくは果物屋の前にいた
ぼくが見つけた場所はそこだった
目に見えないバスが近づいて来る
(『宇宙船』)
*
多くのフォーク歌手がそうだったように、友部正人も少なからず反戦を歌ってきた。
直接的なメッセージを発するものもあれば、間接的に訴えるものもある。
しかし、不本意だろうが友部正人の本質はそこには無いような気がする。
だから『八時十五分』のような詩はどうしても好きになれない。
その代わり『左足と右足』のような、孤独を感じることが出来る詩は大好きである。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ 28号』 (澪標・2015年7月20日・1,000円+税) より再録
2015-08-01 09:37
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