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『ろまねすく』 [書評]

出口裕弘氏の訃報を聞いた。
86歳だったという。
ユイスマンスの『大伽藍』は、生涯忘れることが出来ない一書である。
小説家としての氏は、地味でありながら、深い味わいの作品を残した。
常に、詩人の魂を有していた。

ご冥福をお祈りする。


何もできないので、過去に書いた書評を再録する。



ろまねすく.jpg


『ろまねすく』
出口裕弘
(1990年3月10日・福武書店・1,400円)




幽界彷徨――藪下明博



地下鉄の車内で男は、二人連れの客が執拗にある人物の悪口雑言を交わす声に邪魔されて目を醒ます。
いたたまれない気持ちになり下車し、あそこへ行こうとするのだが、そのあそこが一体何処なのかさっぱりと思い出すことが出来ない。
おまけに駅名が書かれてある筈のプレートの文字さえ、無意味な模様にしか見えず全く判読することが出来ない。
茫然自失のまま改札口を飛び出し、暫く街を歩いているとどうしてもブランデーが飲みたいと云う衝動に駆られる。
ある店を見つけ中に入ると――、何とそこには三〇センチ程にも満たない、ミニアチュールの裸女達が泳ぎ回る巨大な水槽が存在した。


   *      *      *


冒頭の『後宮譚』は以下、絶えず非現実的(ロマネスク)なエピソードの繰り返しと、朦朧とした背景に浮遊する、明確な輪郭を欠いた、曖昧模糊とした筋の運びを頼りに書き綴られたモノローグてある。
しかしながら読者は、此処に一切の不条理と云うものを感じ無い。
何故であろうか――?
つまり此処は夢の中の世界なのである。
或いは夢の中の世界に似せた、夢のような世界だからである。
かつて島尾敏雄は〃夢の系列〃に属する作品群に於いて、夢特有とも云うべき不条理に満ちた常識を敢えて導入することにより、夢本来のリアリティーを醸し出す試みを行っている。
夢を回想として〃語る〃のでは無く、あくまでも〃再現〃し、読み手と同時に〃体験〃する事によって始めて夢そのものを伝達出来る……とでも云ったところか。
ところが本書ではその夢の手法、つまり夢をアナロジーとして利用することで、最も緊密な、或いは遥かに超越した別の世界を描く事を試みている。
他の二篇、『天が落ちた日』、及び『幻鏡』に於いても、同様のエクリチュールに依ることは明白であろう。
例えば、読後のぼんやりとした不明瞭な記憶、始終切迫した悔恨と不安の妄想、鮮明に残像する個々のヴィジョン(黄金の炎に包まれるパゴダの背景や、緩やかに蛇行する濃紺の川、鏡のなかで犯すエロティックな行為、等)は、明らかに夢を超越した世界、いわば冥府の世界を写像しているに違いない。
しかも、所収の三作は恰かも全く繋がりの無い別個の作品と見せ掛けて置きながら、実は幽界への旅立ちの時間的ヒエラルキーを形成するに及んでいる。
『後宮譚』は死を目前に控えた男の意識不明下の悪夢であり、『天が落ちた日』は幻視の都市を彷徨した末の死の瞬間に於ける幻夢、『幻鏡』は異界へ参入後の死の認識と悔恨にうなされる妖夢にそれぞれなぞられるのでは無かろうか。
下手をすれば辻褄の合わない通俗幻想小説に陥り兼ねない分野であるが、見事に幽界の再現に達成している所以は、やはり出口作品ならではの、手法とモチーフの勝利に他なるまい。 


『BGM』創刊号
幻想文学出版局
(1990年8月1日・680円)
「新刊バトルロイヤル」より再録。


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