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魔術的現代詩⑫『森の明るみ』 [魔術的現代詩]

祈りの手法


それにしても詩人の言葉の中には、隠された「祈り」が随所にみられる。
直接的な修辞を避け、あたかも祈る姿を隠すかのように、慎重に言葉を配列する。
これは、自らに課した掟、もしくは儀式であろうか? 
それとも、詩人特有のはにかみであろうか?――





森の明るみ.jpg




『森の明るみ』
須永紀子
(思潮社・2014年10月31日・2,200円+税)


 
    *

どこから入っても
いきなり深い
そのように森はあった
抜け道はふさがれ
穴は隠され
踏み迷う(「森」冒頭)

    *


この深い森は、詩人自らの境地を示す隠喩である。
「出口は地上ではなく他にある/そこまではわかったが/急激に落下する闇に/閉ざされてしまう」(「森」末尾)。
ささやかな光の可能性を見出しながらも、その後に降りかかる災禍への憂い。
この払拭することの叶わない不安への胸騒ぎが「森」の根底には絶えず流れている。


反して「小舟」では、この森が泥沼へと変節し「少しでも先へ進みたいが/沼泥をかくもどかしさ」を抱きながら「それでも北へ向かって漕ぎつづける」希望へと前進する。
「伝えたいことがあるのだ」(「小舟」末尾)と断言するように、この言葉は決断と同時に己を鼓舞する呪文のように響き渡る。
ベクトルは確かに希望へ向いているのだが、その流れは時に不安定な様相を呈している。


タイトルにある『森の明るみ』は、この不安定な境地を示唆しているのだと言えなくもない。
森は深ければ深いほど、もしくは暗ければ暗いほど、そこに囲まれるわずかな明るみは光輝く楽園に比喩されよう。
しかしそれは、逆に森の深さを意味することでもあるのだが、迷い人はその真実を自らの目で確かめる術がない。
まるで怖い話を親にせがむ子供のように、絶望と希望の両義性が紙一重となって潜んでいるかのようだ。


この森の明るみを直視することは、地上の目では手には負えない。
この事実を俯瞰できるのは、幻視の目であり、「時の小径」であり、「鳥の住む部屋」であり、そして「空の庭」なのである。
どうやらこの至高点に存在するユートピアを、詩人は苦悩の果てに掴み掛けているようだ。


    *

踏み出した瞬間にあらわれ
着地と同時に消え
迷えば切り立つ崖の上に
全身が石と化す場所もある
小経の先、
空の庭へ(「時の小経」冒頭)

    *



畏れは魔術的意識の原動力となり、祈りという儀式へつながる。
しかも詩人は、その畏れを払いのけようとしながらも、時にその恍惚たる状態を引き延ばそうとする矛盾をはらんでいる。


詩人はいったい何を畏れているのだろうか? 
いや、詩人は何に対して祈っているのだろうか?―― 

この形容しがたい事由が一言で言い表すことができるならば、詩人は詩を書く必然性を失うだろう。
本詩集もまた、その例外では決してない。
詩を書くこと、詩を読むことは、まさに詩人・須永紀子に与えられた祈りの手法なのである。  




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