SSブログ

『画家の詩、詩人の絵』 [その他詩集]

不可知の領域を感じ取る――藪下明博

画家の詩,詩人の絵.jpg


画家にとっての詩とは何か?
詩人にとっての絵とは何か?

本書のテーマは、この両者において本質的かつ根源的な詩情=詩精神の有り様について、読者に(特に詩人に対して)一石を投じたものと言えよう。
画家の描いた絵と詩、詩人の書いた詩と絵を並列し、300頁以上にも及ぶ詩画集として纏めている。

実に美しい装幀である。

    *

『画家の詩、詩人の絵』
企画・監修/土方明司・江尻潔
監修/木本文平
(株式会社青幻舎・2015年10月10日・3,000円+税)

読者はランダムにその絵と詩を鑑賞でき、そこから何かを感じ取る――勿論、それには正しい解答などある筈もなく、読者の感性に委ねられる。
当然である。
極めて実験的な性質も兼ねていて、久々にワクワクしながら初心に帰った気持ちで読み進む、いや鑑賞することが出来た。


このテーマを考察する上で、編者は近代から現代にいたる六十四名の画家と詩人をラインナップしたとある。
しかも、その面子がなかなか通好みで面白いのだ。
例えば画家では、青木繁、萬鐵五郎、古賀春江、村山槐多、長谷川潾二郎、三岸好太郎……。
詩人では、木下杢太郎、萩原朔太郎、宮沢賢治、稲垣足穂、瀧口修造……などなど。
全員の名前を挙げられないのが残念だが、これは本書の企画・監修をした土方明司氏(平塚市美術館館長代理)らのセンシビリティーの良さの賜物だろう。
窪島誠一郎氏(信濃デッサン館)は「対談」の中で、これを「ごろつきどものハーモニー」と評し、なかなか言い得て妙である。

一例を挙げてみよう。

     *

どうぞ裸になってください
うつくしいねえさん
どうぞ裸になって下さい
まる裸になって下さい
ああ 心がをどる
(村山槐多)

     *


陰鬱で強烈なタッチで描かれる槐多の裸婦像が、この詩と並んで掲載されることは、まさに奇跡的と言っても過言でない。
村山槐多といえば、怪奇幻想小説として『悪魔の舌』が秀逸であるが、こうして絵と詩を並べて見ると、その異端ぶりが際立って発光して見える。


村上槐多.jpg

村山槐多
裸婦 1914~15(大正3~4)年
(本書より転載)




もう一つ、詩人側のラインアップとしては宮沢賢治の水彩「日輪と山」や「月夜のでんしんはしら」が群を抜いている。


     *

わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
一つの青い照明です
(中略)
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(宮沢賢治)

     *

有名な『春と修羅』の序文であるが、改めて絵と並べて読んでみると、賢治の奥行きの深さが伝わってくるようだ。
また、稲垣足穂の「飛行船」を描いた絵や、吉増剛造の「裸のメモ」群などは特筆に値する。


月夜の電信柱.jpg

宮沢賢治
無題(月夜のでんしんばしら)
作年不詳
(本書より転載)




東洋でも西洋でも、詩と絵は密接な関係にあり、長い間姉妹芸術とまで言われるほど蜜月関係を保っていた。
これは、元々詩が芸術の最上位に置かれ「絵は詩のごとく」と論じられてきた経緯に伺われるという。
近代になると詩と絵は独立し、それぞれ個別に発展を遂げ現代に至っている。
しかしその根底には、連綿として何か共通したものが流れているのではないだろうか?――
繰り返すがその答えはない。
この不可知の領域を自ずと感じ取ることが、絵や詩に耽るという事なのだろう。


本書は「画家の詩・詩人の絵」展の公式図録兼書籍として刊行されたものである。
平塚、碧南、姫路、足利と展覧会が開催されている。
6月18日~8月7日まで、北海道立函館美術館で開催されているはずだ。

間に合えば、ぜひ足を運んで見てもらいたい。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。