魔術的現代詩⑮『樹下』 [魔術的現代詩]
樹への想い――孤高ゆえの誇り――藪下明博
目薬の木というものがあるらしい。
カエデ科の落葉樹で、日本にだけ自生する雌雄異株の珍しい植物だとも。
その名の通り、樹皮や葉の煎じ汁で目を洗うと、眼病によく効くと伝えられている。
別名「千里眼の木」、「ミツバハナ」、「長者の木」などと呼ばれている……(この樹皮の粉は/目の病に効く)。
『樹下』
安藤元雄
(書肆山田・2015年9月5日・二四〇〇円+税)
*
いや、樹名の詮索などはどうでも良かった。
何の樹であってもいい。
詩篇の中では、樹名については一切触れていない。
それどころか、語り部としての「私」の正体すら明かすことはない。
ただ「私」は、その大きな樹の下に棲み、身じろぎすらできず、じっと座ったまま、風や雨で葉が揺れる姿や音を聞き、年を重ね、毎日毎日ただそれらを感じている〝なにものか〝として描かれているだけだ。
*
樹は記憶のない昔からそこにあった
物ごころついたときにはもう葉先が揺れていた
つい笑い声を立てるほどに
それを追うのが楽しかった
目に見えるてのひらや爪がたしかに私そのものであるように
葉が揺れるのは私の髪を風が吹くのと同じだろうか
樹があって 私がいて
その二つは実は同じことで
*
「私」と「樹」は、同じようでいて実は同じものではない。
「樹」はあくまでも大地を守る母体としての存在であり、「私」は僅かながらも迷いを伴い、樹に見守られて生きていく存在である。
樹にすべてをゆだねる赤児のような?――いや、何か途方もない太古の昔から樹に宿る言霊のような?――樹をなくしては、「私」すら存在し得ない業(ごう)のようなもの、そのように捉えることが出来なくもないだろう。
樹の下に暮らして、樹と同じものを見つめ、樹と戯れる自然の営みに融合する「私」であるのに、背後に根を張る樹そのものの容姿は決して見ることが叶わない。
樹との決定的な断絶を思い知る「私」であるが、屋根越しに枝葉を伸ばすその情景と同化することで、絶対的な依存と安住の約束を確信する。
樹よりも短い命を知り、いつかこの地をも去らなければならない運命をも悟っている。
なにものかである「私」の、限りある生への不安と諦念を、樹とのコントラストによって想い描いた心象風景。
まったく以て、美しくも静逸な詩篇群である。
*
私もそのように老いながら
少しずつ摩滅するのに違いない
そしてある日 思いもかけず
私もまたほほえんでるに違いない
*
かつて梶井基次郎が、桜の樹の下には死体が埋まっていて、それでいて水晶のように清らかな水を吸っている生の営みを幻視しているが、ここでも「私」は、同じ光景を思い描いているのは興味深い。
*
樹の下にいる私よりさらに下へ
樹は 鱗のない蛇の絡まるような
逞しい根をめぐらせている
乾いた土地の 私の知るよりずっと深い層から
音もなく水を吸い上げている
ただ そんな地中での慌ただしいいとなみが
私の目に届いて来ないだけの話だ
*
ただし、それは美しい桜の樹の狂気を想うのではなく、年老いて朽ちていく運命の美を想う幻視である。
孤高である樹への、誇と畏怖を抱きながらも。
◇『季刊 びーぐる 詩の海へ 30号』 (澪標・2016年1月20日・1,000円+税)より再録
目薬の木というものがあるらしい。
カエデ科の落葉樹で、日本にだけ自生する雌雄異株の珍しい植物だとも。
その名の通り、樹皮や葉の煎じ汁で目を洗うと、眼病によく効くと伝えられている。
別名「千里眼の木」、「ミツバハナ」、「長者の木」などと呼ばれている……(この樹皮の粉は/目の病に効く)。
『樹下』
安藤元雄
(書肆山田・2015年9月5日・二四〇〇円+税)
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いや、樹名の詮索などはどうでも良かった。
何の樹であってもいい。
詩篇の中では、樹名については一切触れていない。
それどころか、語り部としての「私」の正体すら明かすことはない。
ただ「私」は、その大きな樹の下に棲み、身じろぎすらできず、じっと座ったまま、風や雨で葉が揺れる姿や音を聞き、年を重ね、毎日毎日ただそれらを感じている〝なにものか〝として描かれているだけだ。
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樹は記憶のない昔からそこにあった
物ごころついたときにはもう葉先が揺れていた
つい笑い声を立てるほどに
それを追うのが楽しかった
目に見えるてのひらや爪がたしかに私そのものであるように
葉が揺れるのは私の髪を風が吹くのと同じだろうか
樹があって 私がいて
その二つは実は同じことで
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「私」と「樹」は、同じようでいて実は同じものではない。
「樹」はあくまでも大地を守る母体としての存在であり、「私」は僅かながらも迷いを伴い、樹に見守られて生きていく存在である。
樹にすべてをゆだねる赤児のような?――いや、何か途方もない太古の昔から樹に宿る言霊のような?――樹をなくしては、「私」すら存在し得ない業(ごう)のようなもの、そのように捉えることが出来なくもないだろう。
樹の下に暮らして、樹と同じものを見つめ、樹と戯れる自然の営みに融合する「私」であるのに、背後に根を張る樹そのものの容姿は決して見ることが叶わない。
樹との決定的な断絶を思い知る「私」であるが、屋根越しに枝葉を伸ばすその情景と同化することで、絶対的な依存と安住の約束を確信する。
樹よりも短い命を知り、いつかこの地をも去らなければならない運命をも悟っている。
なにものかである「私」の、限りある生への不安と諦念を、樹とのコントラストによって想い描いた心象風景。
まったく以て、美しくも静逸な詩篇群である。
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私もそのように老いながら
少しずつ摩滅するのに違いない
そしてある日 思いもかけず
私もまたほほえんでるに違いない
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かつて梶井基次郎が、桜の樹の下には死体が埋まっていて、それでいて水晶のように清らかな水を吸っている生の営みを幻視しているが、ここでも「私」は、同じ光景を思い描いているのは興味深い。
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樹の下にいる私よりさらに下へ
樹は 鱗のない蛇の絡まるような
逞しい根をめぐらせている
乾いた土地の 私の知るよりずっと深い層から
音もなく水を吸い上げている
ただ そんな地中での慌ただしいいとなみが
私の目に届いて来ないだけの話だ
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ただし、それは美しい桜の樹の狂気を想うのではなく、年老いて朽ちていく運命の美を想う幻視である。
孤高である樹への、誇と畏怖を抱きながらも。
◇『季刊 びーぐる 詩の海へ 30号』 (澪標・2016年1月20日・1,000円+税)より再録
2016-02-18 10:55
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