幻想日誌
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/
宗男の文学日誌です。 ☆どうか、まじめに読んでください!
あおい君と佐藤君と宗男議員
2021-10-09T09:38:32+09:00
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魔術的現代詩㉖『ライフ・ダガス伝道』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2021-01-15
クトゥルー神話以降のディストピア もはや広瀬大志は、詩人というよりも、 「幻視者」と呼ぶにふさわしい作家ではないだろうか?
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2021-10-09T09:38:32+09:00
もはや広瀬大志は、詩人というよりも、
「幻視者」と呼ぶにふさわしい作家ではないだろうか?
これまでの氏の作品を俯瞰してみると、人間の深奥に潜む原初の感情、すなわち「恐怖」と云う根源的な概念を、詩というジャンルに於いて形象化・言語化し、まるで城塞を構築するかのように、コツコツと言葉を積み上げてきた。
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著者 広瀬大志
『ライフ・ダガス伝道』
(書肆妖気/二五〇〇円+税)
⁂
『喉笛城』から『ミステリーズ』、『髑髏譜』、『魔笛』等の系譜を辿ってみると、視覚と聴覚の混成を伴った死の影、若しくは「死の予感を孕む生への恐怖」を探究し続けて来たことは明白であろう。
その集大成とも云うべき本書を手にして、まず始めに驚かされたのは、その稀有なる装幀のスタイルである。
『ダガス伝道』と『ライフ』と云う、凡そ同一直線上に位置し得ない虚構と現実(的な虚構であるが)の物語群を、一冊に(しかも表裏一体型として)封印する形式。
まるで、旧約と新約を抱合せた、キリスト教の聖典そのものなのだ。
本書は正に創世記である。
しかし、そこに秘められた創造は、予言者と神との契約を記録した奇跡の書の写しではなく、かつてH・P・ラヴクラフト等が創り上げた、人類出現以前の原初の教義=クトゥルー神話の系譜を彷彿とさせるものなのだ。
いや、矛盾を覚悟で言及すれば、クトゥルー神話以降の、人類滅亡の時間を象った「ディストピア思想」と言った方がより的確かも知れない。
⁂
合成知能(超強)適正(ユ・チュ)は渡る者(ダ・マジュ)であり
おれとおまえの二つの知己で
汎用性と自主性の実存化を与えられる
(波吽の書(ダ・ンカウ・ル・ジュ)』より)
⁂
『ダガス伝道』は、第一部「ドルメン・カレルメン」、第二部「神曲」から構成される。
第一部は「おれ」の独言と「詩篇」が交互に繰り返され、予兆された時間への「恐怖」から、徐々にダガス(最後の音)への謎に迫っていく物語だ。
特筆するのは、言語の独創、或いは置換と云った神話系特有のマニエールを駆使している点である。
「カレルレン」を筆頭に、「ゴ・ザイラ」=乱樹師、「ノイチ」=呪術、「ダ・ンカウ・ル・ジュ」=波吽の書、「ユ・チュ」=契約・適正、「イエィツ」=指し駒……など、まるで擬古文を解読するように(言語遊戯的指向も交えて)、読者は迷宮の淵を彷徨することになるだろう。
そして「神曲」は、音楽的要素を孕んだ「詩篇」そのものだ。
終盤には、もはや謎を解く必然は消滅し、物語は、ただ感じるだけの詩世界へと変幻していく。
⁂
翻って『ライフ』は、現実社会で暮らす人々のライフ、平凡な日常を記録した十一の詩篇から構成される。
商業営業主任(31)、サービス業営業(28)、不動産業事務(26)、やくざの構成員(32)など、書き手のプロフィールを併記しているところが巧妙だ。
彼(彼女)等は、裏の世界で起きている滅亡のシナリオは知る由もない。
見えざる神の手になる破壊行為は、常に個々人の営みから乖離し、瞬時に日常生活を崩壊させ滅亡へと導くものだ。
この残酷な事実が、同じ時空の中で渦巻いていることを本書は暗示している。
この二冊の書物が一体化されることで、創世記は完成され、新たな神話体系が刻印されるという訳だ。
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魔術的現代詩㉕『世界の終りの日』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2021-01-13
詩と小説との喫水線 詩と小説の喫水線は、しばしば議論の的になる。 しかし、それは飽くまでも形式論であって、イメージの豊穣に思いを巡らす時、詩であろうが小説であろうが、或いは音楽であろうが、映像であろうが、形式論は無味乾燥なものでしかない。
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2021-01-13T17:23:29+09:00
詩と小説の喫水線は、しばしば議論の的になる。
しかし、それは飽くまでも形式論であって、イメージの豊穣に思いを巡らす時、詩であろうが小説であろうが、或いは音楽であろうが、映像であろうが、形式論は無味乾燥なものでしかない。
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著者 草野理恵子
『世界の終りの日』草野理恵子詩集
(発行:モノクローム・プロジェクト、発売:らんか社/二〇一九年九月二〇日発行/一二〇〇円+税)
⁂
殊に幻想を扱う作品の場合、至るところに「詩」は内在するし、形式の縄張り争いなど、最早アナクロニズムと言って良いだろう。
草野恵理子の「詩」の特徴は、そもそも形骸化されたそれとは一線を画すもので、常に物語性を帯び、幻想的で、不安と恐怖の狭間を行き交うメンタリティで構成される。
極めて危うい足場を手探りで通過する感覚を、不条理なまでの速度で展開するエンターテインメントそのものなのだ。
⁂
小花の咲く孤島に耳の長い動物と二人棲む
温かなその毛を持つ生き物と交尾し
子供を産む
(中略)
お腹がすいたら一匹殺す
一匹食べるとずいぶん持つ
(「孤島」より)
⁂
この道徳的背理をもって物語はスタートする。
仔を食らうという残虐性を孕むが、これは閉ざされた空間での規範であり、社会であって、当事者には罪の意識は存在しない。
寧ろ、共認されたモラルとして、ありのままの現実を描写しているに過ぎないのだ。
⁂
ある日間違って姉の体の上に大量のツララを落とした
何本かが姉に胸に刺さり
雪の上 鮮血が飛び散った
(中略)
父と私はそのまま姉を埋めた
(「ツララ」より)
⁂
この血の通わない感性も、同様のモラルから派生する。
まるでマンディアルグを想起させるこのアトモスフィアは、詩人が幼少期に暮らしたという水族館での生活に起因するものか。
水のイメージ、水生生物、エロス、欠損した肉体……透徹したこれらの感性は、ついには「美」という観念に結び付くはずだ。
本書は28の詩篇からなり、Prologue、Act.1、Act.2、Act.3、Epilogueと章に分かれる。
それぞれの詩篇は独立しており、内容的な連続性は特に強調されない。
ただ語り手の人称が私(女)、僕(男)、私(中性)と章ごとに変えて、包括的に「世界の終りの日」を演出している。
なかなか凝ったレイアウトだ。
他に、抽斗の中に男と老婆を飼う「抽斗」など、不安と幻想の妖気が、徐々に世界の終局を予言する。
現代詩に抵抗を持つ読者にも、是非ともお奨めしたい物語詩である。
◆『幻想と怪奇』3 平井呈一と西洋怪談の愉しみ
(株式会社新紀元社 企画・編集 牧原勝志 2020年9月4日 2,200円 税別)より、再録。
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魔術的現代詩㉔『四角いまま』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2020-10-21
四角いからだを丸くする 詩は、観念だけで書かれるものではないこと、或いは、観念だけで読み解かれるものではないことを、改めて確認させられた詩集である。
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2020-10-21T21:14:54+09:00
詩は、観念だけで書かれるものではないこと、或いは、観念だけで読み解かれるものではないことを、改めて確認させられた詩集である。
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『四角いまま』
武内健二郎
(ミッドナイト・プレス 二五〇〇円+税)
⁂
ここに収められた各詩篇には、固定化された表象がない。
詩人の体験からくる身体的記憶の発露とでも言うのか、誰しも思い当たるシチュエーションを描いていながら、そこに共通した言葉が思い浮かばない。
その未知数を具現化するのが「詩」であると言えばそれまでだが、これは凡庸な詩人には到底真似できる事ではない。
感性に頼らず、身体的経験だからこそ、言葉が軽快に踊り出すとでも言うのだろうか?
第一詩集であるという。
大変な詩人が隠されていたものだ。
⁂
マエミゴロ
ウシロミゴロ
ソデタケ
キタケ
呪文のように
祖母は呟きながら
幼いからだの
縦横に
物差しをあてていった
(「採寸」より)
⁂
極限に抑えた感情表現にも拘わらず、なぜか懐かしく、真綿のような情緒が湧き出てくる。
似たような経験は誰しもお持ちであろうが、印画紙にポジフィルムを焼き付けたように鮮明に、心の深奥が甦える。
シンプルな言葉で構成されていること、呪文のような擬音が配置されていること、そして完成されない経過途中の情景であること……
などが、この詩をより一層不可思議な眠りへと誘うのであろう。
この身体的映像感覚は、次の詩にも顕著にみられる。
⁂
浴衣からはみ出すまるく大きい背中だった
緩んだ腰紐が尻の上で
両手の動きをわずかに伝えた
幼い言葉で祖父に尋ねた
「何をしているの」
「茄子を煮ている」
船場言葉の抑揚と
出汁の匂いが
私をうっとりさせた
(「茄子を煮るひと」より)
⁂
幼い頃の自分が、茄子を煮る祖父の背中を見てうっとりするという、ただそれだけの情景だ。
しかし終盤は、現在の自分と幼子とのやり取りに置換され、記憶の連続性を示す映画的情景へと発展している。
本詩集は、Ⅰ四角いまま/Ⅱ遠く 見つめて/Ⅲ茄子を煮るひと/の三部構成となっているが、一貫した平易な言葉の選択と端的なスタイルはどの詩にも共通している(一つだけ散文的なものがあるが)。
日常の些事からインスピレーションを得たものが殆どであるが、例えば淫靡と言う日常も忘れてはいない。
⁂
約束を果たして
わたしの身は
結び目がほどけた
一本の紐のよう
まだ少し
捩れている
(「体位」全文)
⁂
大役を務めた後の緊張の弛緩と、まだ幾ばくか残存する己のテンションを描写したものだと言えば、そう言えなくもない。
しかし根底には明らかにエロスが潜んでいよう。
しかも爆発的なそれではない。
被虐的エロスとでも言うか、郷愁さえも感じてしまう。
また、ユーモアのセンスも切れがいい。
⁂
クラス長のO君は
沈黙を連発し疲れていたのだろう
(中略)
チンムク!
僕たちは 一瞬
たしかに
沈黙したのだった
(「沈黙について」より)
⁂
思わず吹き出してしまうだろう。
いや、沈黙してしまうに違いない。(笑)
そっと宝箱に隠しておきたい小品ばかり、全二十五篇。
四角いままの自分が、読後にはすっかり丸くなっていることに気付かされる。
何ともノスタルジックな詩集である。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 48(澪標 2020年7月20日 1,000円 税込み)より、再録。
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魔術的現代詩㉓『胞衣』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2020-10-14
穢れの無い無垢な願い 晩年の芥川龍之介の作品に「年末の一日」という小品がある。 友人の新聞記者に夏目漱石の墓を教えようと墓地へ行くが、それがなかなか見つからない。 ようやく墓地掃除の女に聞いて墓参を済ませるが、その帰路に、東京胞衣会社と書いた箱車を見つける。……
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2020-10-14T05:04:38+09:00
晩年の芥川龍之介の作品に「年末の一日」という小品がある。
友人の新聞記者に夏目漱石の墓を教えようと墓地へ行くが、それがなかなか見つからない。
ようやく墓地掃除の女に聞いて墓参を済ませるが、その帰路に、東京胞衣会社と書いた箱車を見つける。……
⁂
『胞衣』
作田教子
(思潮社 二二〇〇円+税)
⁂
ここでの「胞衣」という言葉は、かなり強烈なイメージを伴う。
少なくとも芥川の時代には、ある種の禁忌を伴ったであろうことは想像に難くない。
本詩集は、まさにその「胞衣」をタイトルに採用したものだ。
これだけでも、初見の印象は強く脳裏に残存する。
詩人の意図が、そこにあるのかどうかは不明だが、表題作の内容は禁忌とは縁も所縁も感じられない。
子供たちを包み込む神の慈愛と奇跡を孕んだ、象徴としての「胞衣」を描いている。
換言すれば、深遠なる母性の視点と言えよう。
⁂
神様は時々どこにもいないふりをする
いつも空腹を抱えている
空き缶になって
道にひしゃげて転がっていたりする
風に舞っていたりする
狂気を普通に演じたりする
声高に「革命を!」と叫ぶ大人の足元に
影になっていたりする
(「胞衣」より)
⁂
幾つかの詩篇は、しばしば男の子の視点で語られている。
「ぼく」もしくは「ぼくたち」という一人称だが、まぎれもなくここには、詩人自らの過去・現在が投影されていよう。
父や母、祖母と云った身近な家族関係に言及しているが、それは心象世界の環境であり詩人の幻影なので、現実のものと解するのは早計であろう。
⁂
ぼくに似ている背中
ぼくが捨てられた記憶を
きみはその耳で聴いていたはず
父や母の顔を忘れたのに
その声だけが身体のどこかに残っていることも
きみはずっと知っていたはず
(「星も樹も風も」より)
⁂
詩集全編に通底するものは、取り返しのつかない過去の慙愧と贖罪が、記憶の奥深くで交錯して"混沌とした寂寥感"となって溢れ出ていることだ。
そして、そこから生まれる希望をも強烈に発信されている。
何もかも手放しで身を委ねることが赦されない、自責を背負った子供(心)の祈りとでも言えばいいのか?――これは作田の詩が「ぼく」の視点で代弁されることにも関係するに違いない。
⁂
母さんは、雨が降り続いて濁流になった川に、橋の上からいろんなものを棄てました。ぼくがまだとても小さな頃でした。
(中略)
母さんは、ぼくを抱き上げました。
無言でぼくを抱きしめました。
そしてぼくを
川の暗い激しい希望の流れのなかに
投げ込みました……
(「暗い川の希望へ」より)
⁂
ここで「ぼく」が投げ込まれるのは、激しい"希望"の流れであることを見逃してはならない。
一見残酷に映るこの母親像は、未来の創造主としての存在なのであろう。
過去の未成熟な「ぼく」は、この時から既にいなくなった存在として存在しているのだ。
かつて倉橋健一は『耳の語法』(思潮社/二〇〇五年)の栞の中で、作田教子の詩を心理詩(心的連想詩)と評したことがある。
十四年を経過した現在でも、どうやらその傾向は変わっていないようだ。
作田の詩は、いわば韻文と散文の混合詩のようなもので、モノローグとしての語り口調が実に巧妙である。
他に「貸本屋さん」、「柱時計の店」など、ノスタルジーに満ちた散文作品が含まれる。
全十九篇、穢れのない「胞衣」に包まれた無垢な詩群である。
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魔術的現代詩㉒『郵便局まで』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2020-02-28
詩人――或いは、詩境の総括 前作『川・海・魚等に関する個人的な省察』(砂子屋書房)は、まるで世捨て人を演じているかのように、一人、自然の中に融合し、釣竿と戯れる哲人・ソクラテス然としたものであった。あの東日本大震災のことさえ一切触れず「私は詩をできるだけ現実から遠い位置に避難させ」ていたという。(同書/あとがきより)
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2020-02-28T22:26:46+09:00
前作『川・海・魚等に関する個人的な省察』(砂子屋書房)は、まるで世捨て人を演じているかのように、一人、自然の中に融合し、釣竿と戯れる哲人・ソクラテス然としたものであった。
あの東日本大震災のことさえ一切触れず「私は詩をできるだけ現実から遠い位置に避難させ」ていたという。
(同書/あとがきより)
⁂
『郵便局まで』
八木幹夫
(ミッドナイト・プレス 二三〇〇円+税)
⁂
本詩集は、それから四年の歳月が流れているが、どうやら事情は少し変わったようだ。
もはや「あとがき」は省略され、解釈は個々の作品の中にあるとでも言うように、詩作に至る経緯については一切触れていない。
⁂
いくつもの川を渡った
いくつもの夢を渡った
いくつもの橋を渡った
妖しいひとと船にゆられた
狂気のひとと夢にもつれた
橋の上ではひきかえそうと
なんども思ったが
(中略)
⁂
結びを飾る「冬のうた」は、このような詩人の心境を綴ったものであろう。
また、あとがきに匹敵すると言っても良いものだ。
⁂
女がやってきて
この男が私を殺したのだという
おまえは生きているじゃないかと
恐ろしい形相でいう私がいる
⁂
と、続き
⁂
小説はまだ終わらない
⁂
と、結ばれる。
決して平穏無事な半生を営んで来たのではないことを示唆するものだが、まだ詩人としての執着は捨てていない。
いや、寧ろモチベーションを高めてさえいる感が伺える。
詩集全体に「老い」というフレーズが目立つのも、幾つかの艱難辛苦を味わって来たその証しだろう。
鬼籍に入った詩人へのオマージュも、これとは無縁のことではない。
長田弘、辻征夫、辻井喬、井上輝夫、西脇順三郎、清水昶など、どれも深い哀惜を込めた美しい詩篇に昇華されている。
とりわけ西脇順三郎に触発された「ゲップする牛」は、八木には珍しくペダンチックな作品で、就中異彩を放っている。
そもそも表題作「郵便局まで」は(妻を早くに失い/老いを迎えた詩人)長津功三良氏への追想である。
詩集への礼状を懐に入れ、雪の中に郵便局へ投函しに行くという、ただそれだけの情景を描いたものだ。
ここには何の事件性も見当たらないが、雪に残った自分の足跡に、人生の歓喜を映し出すという、見事な抒情の捉え方に感服する。
詩人は、これまで避けてきた社会的、もしくは個人的な事象(身体的なこと)や家族のこと(特に孫への愛着)なども、本詩集では饒舌に吐露している。
果ては時空を超えた万葉の彼方の現世や、人類創世の夢にまでも。
⁂
見えたのは火の子 日ノ御子
天子(天使)さまが立っている
あれは火の粉
また落ちていく白燐弾 ひひひひひ
なぜ 殺すのか ヒトがヒトを
「ひさかた」
⁂
まるで堰を切ったかのように憤りが止まらない。
これほどまでに直截な怒りを込めた詩は、八木には珍しいことである。
さて「遠景―影の男―」に言及しなくてはなるまい。
⁂
ゴムのように伸びる時間がずんずん引っ張られて
過去のある一点からいきなりぷつんと切れた
⁂
と始まるこの詩も、八木個人の過去を取り上げたものだ。
オヤジの命日を(死にいい)と逆さに読む滑稽さと同時に、死の瞬間の、肉体から離れ高く俯瞰する魂の肉声までを見事に描写している。
これを書くことで、詩人の心はどれほど救われたことであろうか。
八木は、己の詩人生をこの一篇に賭したのかも知れない。
まるで、八木幹夫の詩境の総括とでも言うかのように。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 46(澪標 2020年1月20日 1,000円 税込み)より、再録。
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魔術的現代詩㉑『無人駅』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2019-11-18
此岸と彼岸――魂と魂の会話一体、何と話しているのだろうか?――改札をまだ済ませていない、無人駅、草ぼうぼうの魂に覆われ、人生をおりた、一人の水夫(かこ)……。その眼差し(気配)の向こうには、此岸と彼岸の間で交信される、魂と魂の会話が止めどなく繰り返されている。実にもの静かで、慎み深い、人の世の年輪を幾重にも積んだ、極めて荘厳な詩集である。
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2019-11-18T22:34:31+09:00
一体、何と話しているのだろうか?
――改札をまだ済ませていない、無人駅、草ぼうぼうの魂に覆われ、人生をおりた、一人の水夫(かこ)……。
その眼差し(気配)の向こうには、此岸と彼岸の間で交信される、魂と魂の会話が止めどなく繰り返されている。
実にもの静かで、慎み深い、人の世の年輪を幾重にも積んだ、極めて荘厳な詩集である。
*
『無人駅』
川上明日夫
(思潮社・二〇一九年六月一日・二四〇〇円+税)
*
見上げれば
ノスリが一羽
空でゆっくり舞っている
のだが
じつはそれより
もっと うえのほうだ
魂がやんだのにまだおりてこない
高い空の足音がきこえて
くる
「高い空の足音が」
*
これまでに詩人は、この河岸を渡る魂との会話を連綿と「詩」に託してきた。
詩集『雨師』(2007・思潮社)辺りからであろうか?
「ぷつん、と電話がきれたようにあの方は逝かれてしまった」(あとがきより)頃であろう。
以後、数冊に及ぶ詩集に於いても、同じ語彙が使われ、同じ会話が繰り返され、そして同じ花の開花を尋ねあっている。
(白骨草 もう咲きましたか)
(紙魚のない/人生なんて)
(鰯雲 鯖雲 鯨雲も 流れてゆく)
(書き物という寂しい場所にも)
(耳の姿勢の濃い日でしたね)
(越前、道守荘、社の郷、/狐川)
これら度々繰り返されるフレーズは、他人の解釈を寄せ付けない、実にプライベートな約束事を暗喩したものであろう。
その真意に、よそ者が深く触れる必要はない。
ただ、この暗号めいた語彙のルフランによって、詩は個人的な会話から乖離し、周囲を巻き込む永遠へと受け継がれて行く。
川上明日夫の詩は、この『無人駅』一つでは完結し得ないのだ。
未だ詩人の魂は改札を抜け切れず、置き去りにされた、孤独な呼霊のまま浮遊する。
*
雨が降っている
鶸が鳴いている
いつのまにか 魂が 終(や)んでいる
雨上がりの
空の途を
今なにかが ひっそりと 傘をさし
還っていった
「雨、鶸が鳴いている」
*
先に逝ってしまったあの方との別れ。
「書き物」(=詩)という場所にただ一人残された寂寥感が、これ以上ない物静かなビジュアルを以って描出されている。
稀にみる秀作であろう。
それでも、詩の中であの方は、時に明るい仕草で詩人を慰めることになる。
*
おしっこ なんて さっき
女房が空に還ってゆきましたよ
つるん と
ひと皮むけたような まるい
卵の雨 誰かに聞いてほしくて
ね
白く洗っています
雨 降っています
「つるんと卵の雨」
*
最早これは彼岸の話ではない。
まだ、生身の生活があった頃の日常会話の再現だ。
*
ぼくは
湖を見ながら詩を書いている
すると
湖が自然の声のように
凪いでくる
心の平安によせる波の音色で
岸辺がわかる
「ぼくは湖を見ながら」
*
詩作に没頭することによって、川上明日夫は孤独を孤独のままに、安らぎを安らぎのままに、(打ちよせられる 刻の想いに/我を忘れ)はにかんだ振りをするでもなく、その刹那の境域を受話器に向かって語りたいのだろう。
まだ電話は話し中なのである。
表題の「無人駅」は北陸線、新疋田駅(一日平均二十三人程度の利用者数)であるとともに、此岸と彼岸の改札口を暗示したものか。
全十二篇収録。
越前、道守荘、社の郷、狐川のほとりで、川上明日夫は、まだ当分のあいだ改札を済ませることはないだろう。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 45(澪標 2019年10月20日 1,000円 税込み)より、再録。
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魔術的現代詩⑳『声の海図』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2019-08-03
通底する不全感――藪下明博あるいは、旅の詩集なのかもしれない。旅をテーマにした断章の結合。ただしこの旅は、詩人の記憶の中で構築された過去と、架空の出会いとによって認識された「場」の移動によって成立する。朧げで危うい、まるで水上を浮遊するかのような、不安に駆られた旅であるはずだ。 *『声の海図』君野隆久(思潮社・二〇一九年三月三十一日・二五〇〇円+税)
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2019-08-03T23:21:54+09:00
あるいは、旅の詩集なのかもしれない。
旅をテーマにした断章の結合。
ただしこの旅は、詩人の記憶の中で構築された過去と、架空の出会いとによって認識された「場」の移動によって成立する。
朧げで危うい、まるで水上を浮遊するかのような、不安に駆られた旅であるはずだ。
*
『声の海図』
君野隆久
(思潮社・二〇一九年三月三十一日・二五〇〇円+税)
*
前作『(朝、廃区を、)』が出てから九年程が経過しているが、その詩風はやや饒舌を伴って変成しているようだ。
言葉が過剰になり、ディテールが濃密になった分、印象の固定化が進行している。
つまり、分かりやすくなったのだ。
これは、大きな変化である。
言葉の並べ替えに苦悩した前作に比べて、ようやく詩人の本領が発揮できたと理解すればいいのだろうか?
それとも未だに模索中の袋小路の最中にいるのか?
いずれにしても、その詩情は二十年前の第一詩集『二都』以来、一貫して変化のないものだと書評子は強く感じている。
冒頭の「操車場」は、かつて住んだことのある(鉄工所と旋盤工場ばかり)の町を、過去の残像としてエスキースしたものか。
*
(道路が錆で赤く染まっている/子供は鉄屑と泥で遊び/腹が空くと小麦粉と芋を甘く焦がして/焼いて食べている)
*
抜け出そうにも抜け出せない現実の生活の「場」に於いて(暮らすことは甘美な隔離だ)と諦念しつつも、いつか脱出、いや旅の始まりを試みる野心が潜在的に隠されている。
*
(夜中に煙草を吸おうとして窓を細くあけると/長い鉄の軋みが聴こえてくる)
*
とする独言が、始めと終わりに繰り返される索漠とした作品である。
そしてこの寂寥の旅の模様は、様々な街としての形質を変形させ記録されていく。
「塩田」「水の街」「冬の橋」「中庭」「T市場」「夢と木橋」「冬のホテル」「湖北」……。
とりわけ合成樹脂の冷たく乾いた部屋を想起させる「残像」と「声の海図」に見られるじめじめとした半島の市場とのコントラストが、強烈な漂泊感を扇動するメカニズムとして機能している。
*
(夜になると/朦朧として/路上の星をぐさぐさと踏みながら/それぞれの棟の非常灯のあかりをみて回った)
*
更に、この「街区」の孤独感は(その街はどこまで歩いてもアパートしかない/二階建て木造モルタルのアパートの連続)とリフレインされることで、どこまで行っても一人であるという事実を、認識せざるを得ない状況下にまで引きずり込む。
不安なのである。
さびしいのである。
孤独なのである。
全篇を通底するこの人間としての不全感こそが、君野隆久の詩の醍醐味であろうと思うのは、もはや書評子一人の感想ではあるまい。
*
他に、アンドレ・ブルトンが太っているのを見て、絶交を迫る老人が登場する「礫の街」や、ゴミ屋敷での詩人の死を描いた「窓の向こう」などは、異色な作品として特筆されよう。
また「(水が空気にある)」などの(調律の詩)が、殊更印象深く感じられた。
*
あとがきによれば、二〇一一年以降に書かれた「場所」をテーマに書かれたものであるらしく、全二十篇が収録されている。
初出は、須永紀子氏の個人詩誌『雨期』と、相沢育男氏の『ひょうたん』から選出されたものが多い。
蝸牛の歩みとはいえ、いつまでも真摯に歩み続けてもらいたい詩人である。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 44(澪標 2019年7月20日 1,000円 税込み)より、再録。
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魔術的現代詩⑲『クリティカル=ライン』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2019-05-13
詩批評への批評の更なる批評――藪下明博今日、詩誌や詩集の読者数が減少する中で、果たして詩批評の読者数とはどれ程のパーセンテージで存在するのであろうか?――と、冒頭から身も蓋もない疑問が頭をよぎるが、仮にそのような「統計」が存在したとしても、昨今の世情を鑑みた場合、信頼性は限りなく危険域に達していることだろう。(笑) *『クリティカル=ライン』 詩論・批評・超=批評添田馨(思潮社・2018年12月25日・二八〇〇円+税)
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2019-05-13T15:43:47+09:00
今日、詩誌や詩集の読者数が減少する中で、果たして詩批評の読者数とはどれ程のパーセンテージで存在するのであろうか?
――と、冒頭から身も蓋もない疑問が頭をよぎるが、仮にそのような「統計」が存在したとしても、昨今の世情を鑑みた場合、信頼性は限りなく危険域に達していることだろう。(笑)
*
『クリティカル=ライン』 詩論・批評・超=批評
添田馨
(思潮社・2018年12月25日・二八〇〇円+税)
*
それはともかく、本書は添田氏による二〇〇〇年以降に執筆された文学関係の評論を纏めたもので『現代詩年鑑』発表の「詩論展望」や『現代詩手帖』連載の「時評」、及び『びーぐる』連載の「詩論時評」を中心に編纂された三部構成となっている。
実に、三〇年ぶりの事だというが、言わば詩批評に対する批評論集で、こうなると読者数は天文学的逆数の境地に達すること請け合いである。
ここにその作品名まで上げる余裕はないが、本書で取り上げられた主な批評家・詩人を列挙すれば、吉本隆明、鮎川信夫、北川透、天沢退二郎、守中高明、瀬尾育生、近藤洋太、藤井貞和、鈴村和成、谷内修三、山田兼二、細見和之等々……
詩論時評という性格も相まってか、如何にも硬質な面々が連なる。
評者の論旨を丁寧に辿り、深長なる考察と的確な批評、そしてその真意を読者に伝達しようとする氏の手腕は、長年携わって来た詩論時評家としての役割を見事に遂行していよう。
年次ごとに出版された数多く(?)の詩論集の中から、一つの詩論(批評家)を選択するという作業そのものが、既に批評論として成立していることは自明の理である。
例えば先に書評子が列記した面々であっても、所収の数多くの人物の中から選んだ、もしくは選ばなかったという事実が、潜在的か否かも含め、いささか思惟的なものである筈だと明記しておきたい。
*
二〇一一年三月十一日の震災関係で特に興味深いのは、吉本隆明に対する添田氏の複雑な心境が、隠しても隠し切れない煩悶として描写されている点である。
震災以降亡くなるまでの間、吉本は一貫して「脱・原発」を批判した。
その整合された明解な論旨に対して、被災感情を払拭できない添田氏の理念上の葛藤が随所に散見される。
『私は自分の中のある種の「共同幻想」が、今回の原発事故でもっとも激しく毀損したという思いをどうにも禁じ得ない』(「死神の封葬」)。
そして、表題にもなっている「クリティカル=ライン」とは、数学的超難問とされる「リーマン仮説」に於ける「臨界線」のことを言い「絶対数学に対する位置に〝絶対詩学〟の発見が構想」展開されたものだと氏は主張する。
数学に於ける素数と詩作品の類同性に着眼した、全く以て新しい意欲的な詩論であろう。
ただし、理数系の書評子にとっても難解で、正直その詳細が理解できたとは言い難い。
そもそも数学のプリミティブな四分野「数論」「音楽」「幾何学」「天文学」を「数」と「量」に分け、次にそれが「静」と「動」とのマトリックスで表したものに対し「詩学」「詩論」「詩史」「批評」のそれぞれを当て嵌め、更に「数」を「質(言葉)」に置換するという分類方法は、やや論理に飛躍が見えるだろう。
「数」という基礎単位に対して「質(言葉)」が対比するならば、言葉は常に同一の意味合いを持つ普遍的な存在になるのではないだろうか?
もしくは、言語は唯一「詩」に於いてのみ存在するのだと言いたいのか?
いずれにしても論証不可能という点に於いて、どこか「魔術的」概念にも通底しているのかもしれない。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 43号(澪標 2019年4月20日 1,000円 税込み)より、再録。
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魔術的現代詩⑱『近現代アイヌ文学史論』〈近代編〉
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2019-03-10-1
内なる越境文学の歴史とその軌跡――藪下明博近(現)代のアイヌ文学の歴史を、これ程までに系統立て、かつ主要文献(人物)を網羅した「文学史」は他に見当たらないであろう。藤本英夫氏による知里幸惠や知里真志保、金田一京介らの先駆的伝記の貢献は言うまでもないが、アイヌ文学を国内に於ける越境文学と捉え、固有の文学史として見据える著者の視点は、今後のアイヌ文学研究の方向性を決定付けるエポックメーキングになると言っても過言ではない。 *『近現代アイヌ文学史論』〈近代編〉須田茂(寿郎社・2018年5月31日・二九〇〇円+税)
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2019-03-10T22:02:12+09:00
近(現)代のアイヌ文学の歴史を、これ程までに系統立て、かつ主要文献(人物)を網羅した「文学史」は他に見当たらないであろう。
藤本英夫氏による知里幸惠や知里真志保、金田一京介らの先駆的伝記の貢献は言うまでもないが、アイヌ文学を国内に於ける越境文学と捉え、固有の文学史として見据える著者の視点は、今後のアイヌ文学研究の方向性を決定付けるエポックメーキングになると言っても過言ではない。
*
『近現代アイヌ文学史論』〈近代編〉
須田茂
(寿郎社・2018年5月31日・二九〇〇円+税)
*
それほどまでに本書の出現は、質・量ともに充実したものと評価してよいだろう。
本書は、まず「近現代」という時代区分についての定義から始まり、その区分が単なる日本史に於いての近現代ではなく、アイヌ民族のアイデンティティーを基調に考察している点に注目しなければならない。
従来通り、日本文学の範疇内でのアイヌ文学とは捉えず、あくまでも民族として独立した「アイヌ」を主眼に置いた文学史なのである。
アイヌ民族には文字の文化が存在しなかった。
しかし、ユカラやウエペケルなど「口承文芸」という形での「文学」が存在したことは周知の通りである。
そして、その「口承」自体も、国家による日本語の強制使用と同化教育により蹂躙されてきた事実は強調してもし過ぎはしないだろう。
よって近現代におけるアイヌ文学の特徴は、その大半が否応なく日本語によってなされたもの、或いは日本語を母国語と同様の意識下に於いて使用したものなど、複雑に交錯した精神構造が根底に潜在している。
著者は、まずその歴史的背景に触れた上でアイヌ文学の全体像をほぼ時系列に沿って俯瞰している。
イギリス聖公会宣教師ジョン・バチュラーによる「アイヌ教育」から始まり、日本政府の「アイヌ学校」による同化運動、小谷部全一郎の虻田学園、南極探検隊からの帰還後に、自叙伝として出版された山辺安之助の『あいぬ物語』など、樺太アイヌの概要紹介も含めた現在では入手困難な資料にも多く言及している。
とりわけ、アイヌ民族の風習や和人との関係、宗教、工芸品にまで手を広げた『アイヌ物語』の著者武隈徳三郎の足取りは、文学史の範疇を超えた委細な記録という観点からも非常に興味深い。
今日ではアイヌ文学の金字塔とまで言われる知里幸惠の『アイヌ神謠集』をはじめ、俳人・歌人である違(い)星(ぼし)北斗(ほくと)の文学思想や、歌人として名を馳せるバチュラー八重子の軌跡、アイヌ民族初の本格的「日本語」詩人森竹竹市の詩業など、一般には知られていない詩歌人の紹介には目を瞠るものがある。
*
蛙鳴くコタンは暮れて雨しきり(違星北斗)
*
ふみにじられふみひしがれしウタリの名誰しかこれを取り返すべき(バチュラー八重子)
*
冷たき友の骸をかつぎ/夕日落つる西山の/ほとりへ我等しづ歩む/優勝劣敗ーー適者生存ーー(「輓歌」森竹竹市)
*
これらの詩歌は、近代アイヌ文学の特徴である「抵抗文学」としての側面を有することは否定できない。
むしろ、今までそのことに焦点を当てすぎ、純粋文学としての観点が蔑ろにされてきた嫌いがあるだろう。
本書を契機に、多くの人が「アイヌ文学」に触れ、その本義を再考することに期待したい。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 42号(澪標 2019年1月20日 1,000円 税込み)より、再録。
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魔術的現代詩⑰『端境の海』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2019-03-10
妣島のメモリアル――藪下明博麻生直子詩集『足形のレリーフ』(二〇〇六・梧桐書院)が刊行されてから、すでに十二年の歳月が流れている。その間『憶えていてくださいー奥尻島・地震と津波の記憶』(二〇〇八・梧桐書院)、伊賀ふで詩集『アイヌ・母ハポのうた』(二〇一二・現代書館)等の編著が出ているが、久しぶりの新詩集に興奮して、逸る気持ちを抑えながら何度も何度も読み返した。 *『端境の海』麻生直子(思潮社・2018年6月30日・二六〇〇円+税)
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2019-03-10T21:12:06+09:00
麻生直子詩集『足形のレリーフ』(二〇〇六・梧桐書院)が刊行されてから、すでに十二年の歳月が流れている。
その間『憶えていてくださいー奥尻島・地震と津波の記憶』(二〇〇八・梧桐書院)、伊賀ふで詩集『アイヌ・母ハポのうた』(二〇一二・現代書館)等の編著が出ているが、久しぶりの新詩集に興奮して、逸る気持ちを抑えながら何度も何度も読み返した。
*
『端境の海』
麻生直子
(思潮社・2018年6月30日・二六〇〇円+税)
*
前作『足形のレリーフ』のあとがきには(私がこれまで書いてきた詩や散文の多くは、島の岸辺に置き去りにした少女の心象風景と、表現の世界においての辺境の意味への失地回復であった)との記載がある。
本誌集のモチーフや感性もその延長線上にあることは間違いないが、島に置き去りにしてきた「少女」の心象風景は、いつしか激しい波のうねりに浄化され、齢を重ねた「女」としての心情吐露に変化している。
そして、その対象は(夕凪の水平線に足を捕らわれて/人間不信のままに没した)母への想い出に収斂され、そして何よりも自分自身の「春のおもいで」として昇華されている。
タイトルにある「端境はきょうの海」とは、麻生直子にとって、少なくとも大きく二つ存在するのであろう。
一つは、祖母や母と共に十二歳の春まで過ごし(船酔いにおびえながら/揺れる船室で/もっと激しく揺れていた)過去を背負う奥尻の海と、そして十九歳の春(東京での就職を決意して/ようやく異父兄の許しがでた四月はじめ)内地で(たたかう)ことを覚悟した、津軽海峡のそれである。
しかし、この二つの「端境の海」には、父親は幻影でしかない。
男手の代わりに働く母と祖母、心の拠り所となった異父兄の面影は濃いものの、戦争で死んだ〈はず〉の父の投影は薄く、かつての拘泥は見られない。
不躾とは思うが、少女から女に変貌する道程において(父に認知されない)子供の怨恨は、時間の経過とともに希釈されたのだろう。
巻末のエッセイ「母と漁火」は、全編に通底する郷愁のエッセンスが、無駄のない詩語によって奏でられた美しい散文詩でもある。
詩集『ペデストリアン・デッキの朝』(一九八七・潮流出版社)から「夜の船」の一部を再掲して、荒海に浮かぶ雪の島・奥尻島でのひたむきな亡き母を描いたメモリアルだ。
*
夕暮れ、二、三トンの木造船に電灯が一つ。
釣り具と小さな手元用の行火あんかを持ち、船に乗り込んでいく耳の遠い母を見送るときは、子供心に、喩えようのない哀しみがみちた。
*
奥尻島は一九九三年、北海道西南沖地震による津波の猛威に、甚大な被害を被った。
その直後、麻生直子は八〇歳の母を伴って、島へ見舞に行ったという。
もう少し時期がずれていれば、自分達も津波に遭遇していたかも知れないのだ。
本書にも、随所にその傷跡が見られる。
震災で全て失った男が、新たな家庭を築くものの、騙されて(俺にもまだ失うものがあったのだ)と呆然とする「妖薬を買う」など、また社会派詩人としての本領を発揮した「亀裂に棲む蟹の哀歌」や「悪魔の排泄物」を含む、全二六編の最新詩集である。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ』 41号(澪標 2018年10月20日 1,000円 税込み)より、再録。
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『画家の詩、詩人の絵』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2016-07-13
不可知の領域を感じ取る――藪下明博画家にとっての詩とは何か?詩人にとっての絵とは何か?本書のテーマは、この両者において本質的かつ根源的な詩情=詩精神の有り様について、読者に(特に詩人に対して)一石を投じたものと言えよう。画家の描いた絵と詩、詩人の書いた詩と絵を並列し、300頁以上にも及ぶ詩画集として纏めている。実に美しい装幀である。 *『画家の詩、詩人の絵』企画・監修/土方明司・江尻潔監修/木本文平(株式会社青幻舎・2015年10月10日・3,000円+税)
その他詩集
あおい君と佐藤君と宗男議員
2016-07-13T23:12:10+09:00
画家にとっての詩とは何か?
詩人にとっての絵とは何か?
本書のテーマは、この両者において本質的かつ根源的な詩情=詩精神の有り様について、読者に(特に詩人に対して)一石を投じたものと言えよう。
画家の描いた絵と詩、詩人の書いた詩と絵を並列し、300頁以上にも及ぶ詩画集として纏めている。
実に美しい装幀である。
*
『画家の詩、詩人の絵』
企画・監修/土方明司・江尻潔
監修/木本文平
(株式会社青幻舎・2015年10月10日・3,000円+税)
読者はランダムにその絵と詩を鑑賞でき、そこから何かを感じ取る――勿論、それには正しい解答などある筈もなく、読者の感性に委ねられる。
当然である。
極めて実験的な性質も兼ねていて、久々にワクワクしながら初心に帰った気持ちで読み進む、いや鑑賞することが出来た。
このテーマを考察する上で、編者は近代から現代にいたる六十四名の画家と詩人をラインナップしたとある。
しかも、その面子がなかなか通好みで面白いのだ。
例えば画家では、青木繁、萬鐵五郎、古賀春江、村山槐多、長谷川潾二郎、三岸好太郎……。
詩人では、木下杢太郎、萩原朔太郎、宮沢賢治、稲垣足穂、瀧口修造……などなど。
全員の名前を挙げられないのが残念だが、これは本書の企画・監修をした土方明司氏(平塚市美術館館長代理)らのセンシビリティーの良さの賜物だろう。
窪島誠一郎氏(信濃デッサン館)は「対談」の中で、これを「ごろつきどものハーモニー」と評し、なかなか言い得て妙である。
一例を挙げてみよう。
*
どうぞ裸になってください
うつくしいねえさん
どうぞ裸になって下さい
まる裸になって下さい
ああ 心がをどる
(村山槐多)
*
陰鬱で強烈なタッチで描かれる槐多の裸婦像が、この詩と並んで掲載されることは、まさに奇跡的と言っても過言でない。
村山槐多といえば、怪奇幻想小説として『悪魔の舌』が秀逸であるが、こうして絵と詩を並べて見ると、その異端ぶりが際立って発光して見える。
村山槐多
裸婦 1914~15(大正3~4)年
(本書より転載)
もう一つ、詩人側のラインアップとしては宮沢賢治の水彩「日輪と山」や「月夜のでんしんはしら」が群を抜いている。
*
わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
一つの青い照明です
(中略)
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(宮沢賢治)
*
有名な『春と修羅』の序文であるが、改めて絵と並べて読んでみると、賢治の奥行きの深さが伝わってくるようだ。
また、稲垣足穂の「飛行船」を描いた絵や、吉増剛造の「裸のメモ」群などは特筆に値する。
宮沢賢治
無題(月夜のでんしんばしら)
作年不詳
(本書より転載)
東洋でも西洋でも、詩と絵は密接な関係にあり、長い間姉妹芸術とまで言われるほど蜜月関係を保っていた。
これは、元々詩が芸術の最上位に置かれ「絵は詩のごとく」と論じられてきた経緯に伺われるという。
近代になると詩と絵は独立し、それぞれ個別に発展を遂げ現代に至っている。
しかしその根底には、連綿として何か共通したものが流れているのではないだろうか?――
繰り返すがその答えはない。
この不可知の領域を自ずと感じ取ることが、絵や詩に耽るという事なのだろう。
本書は「画家の詩・詩人の絵」展の公式図録兼書籍として刊行されたものである。
平塚、碧南、姫路、足利と展覧会が開催されている。
6月18日~8月7日まで、北海道立函館美術館で開催されているはずだ。
間に合えば、ぜひ足を運んで見てもらいたい。
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魔術的現代詩⑯『アンドレ・ブルトンの詩的世界』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2016-04-30
痙攣的な「詩」世界の探求――藪下明博久しぶりにアンドレ・ブルトンに関する纏まった論考が上梓された。詩人・朝吹亮二氏が三十年にわたり書き留めた、詩論・エッセー・研究ノート等を一冊にしたものである。二部構成となっており、Ⅰ部には研究論文八本を、Ⅱ部にはエッセー六篇が収録されている。 *『アンドレ・ブルトンの詩的世界』朝吹亮二(慶應義塾大学法学研究会・2015年10月30日・四九〇〇円+税)
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2016-05-02T15:01:17+09:00
久しぶりにアンドレ・ブルトンに関する纏まった論考が上梓された。
詩人・朝吹亮二氏が三十年にわたり書き留めた、詩論・エッセー・研究ノート等を一冊にしたものである。
二部構成となっており、Ⅰ部には研究論文八本を、Ⅱ部にはエッセー六篇が収録されている。
*
『アンドレ・ブルトンの詩的世界』
朝吹亮二
(慶應義塾大学法学研究会・2015年10月30日・四九〇〇円+税)
*
多くは慶應義塾大学の紀要論文を再録したもので、一般にはお目にかかれない資料に溢れている。
まさにブルトンファンにとっては「至高」の喜びと言っても過言ではあるまい。
中には『シュルレアリスムの思想』(思潮社・1981)所収の評論「『磁場』序説」や、『現代詩手帖』(特集シュルレアリスムと20年代・1988)所収の「イマージュの変身譚」、『ユリイカ』(特集アンドレ・ブルトン・1991)所収の「博物誌の方へ」なども混じっている。
決して新しいものではないが、微塵も古さを感じさせないところは、論考の完成度が高い証拠であろう。
*
アンドレ・ブルトンとは何者か?
――と、『ナジャ』の冒頭で投げかけられた「私とは誰か」という問いに匹敵する難問に答えるとするならば――
アンドレ・ブルトンとは詩人にして評論家、編集者、哲学者、美術家、政治的活動家……そして何よりもシュルレアリスム運動を打ち立てた宣言者であり、その忠実な実践家である。
過去におけるブルトンに関する研究論文は枚挙に遑がないが、その多くがシュルレアリスム思想を中心にした理論、解説の類で、その対象は「散文」を中心に扱われてきたことは否めない事実である。
そもそも『シュルレアリスム宣言』においては、初版は『溶ける魚』と併せて一冊をなしていた訳だが、著者も言及する通り、意外とこのことは忘れがちである。
元来詩人であるにもかかわらず、散文ばかりが研究の対象となっていたとする不満が本書を生んだ動機の一つであると著者は漏らしているが、何よりも著者の詩人としての資質が、無意識裡に詩人・ブルトンの「詩」そのものにスポットを当てようと欲したのではないだろうか?――
*
もちろんブルトンの主要散文『ナジャ』『通底器』『狂気の愛』『秘法一七番』からの引用は目立つが(いや、目立って然るべきだが)、『磁場』や『処女懐胎』といった匿名性を孕んだ他者との共著詩作品、あるいは個人詩集としての『慈悲の山』『水の空気』『溶ける魚』などの「詩」そのものを深く探求するプロセスは、大変興味深く、また実に面白く読み進むことが出来た。
とりわけ「ブルトンの詩の読解」や「イマージュ論の展開」には強く惹きつけられるものがある。
特に後者は「イマージュ」なる概念が、大凡の輪郭は掴めるものの、依然曖昧なままに使用されてきた事実を指摘し、さらに「イマージュ」は「映像的」なものに留まらずに、むしろブルトンにとっては「聴覚的」に働いていることを検証したものである。
またそれは「自動記述」と深い関連があること、何よりもイマージュされる二つの事項の間に比喩機能が成立しない(他の言葉で言い表すことのできない)宙吊り状態を示している、と著者は指摘するのだ。
この宙吊り状態のイマージュは直喩(比較)からは生まれず「得られた閃光の美しさにかかっている」とするブルトンの言葉も紹介されている。
これは、まさにあの有名な『ナジャ』の一節に通底するものだろう。
「美とは痙攣的なものであり、さもなければ存在しないだろう」――と。
◇『季刊 びーぐる 詩の海へ 31号』 (澪標・2016年4月20日・1,000円+税)より再録
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魔術的現代詩⑮『樹下』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2016-02-10
樹への想い――孤高ゆえの誇り――藪下明博目薬の木というものがあるらしい。カエデ科の落葉樹で、日本にだけ自生する雌雄異株の珍しい植物だとも。その名の通り、樹皮や葉の煎じ汁で目を洗うと、眼病によく効くと伝えられている。別名「千里眼の木」、「ミツバハナ」、「長者の木」などと呼ばれている……(この樹皮の粉は/目の病に効く)。『樹下』安藤元雄(書肆山田・2015年9月5日・二四〇〇円+税)
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2016-02-18T10:55:04+09:00
目薬の木というものがあるらしい。
カエデ科の落葉樹で、日本にだけ自生する雌雄異株の珍しい植物だとも。
その名の通り、樹皮や葉の煎じ汁で目を洗うと、眼病によく効くと伝えられている。
別名「千里眼の木」、「ミツバハナ」、「長者の木」などと呼ばれている……(この樹皮の粉は/目の病に効く)。
『樹下』
安藤元雄
(書肆山田・2015年9月5日・二四〇〇円+税)
*
いや、樹名の詮索などはどうでも良かった。
何の樹であってもいい。
詩篇の中では、樹名については一切触れていない。
それどころか、語り部としての「私」の正体すら明かすことはない。
ただ「私」は、その大きな樹の下に棲み、身じろぎすらできず、じっと座ったまま、風や雨で葉が揺れる姿や音を聞き、年を重ね、毎日毎日ただそれらを感じている〝なにものか〝として描かれているだけだ。
*
樹は記憶のない昔からそこにあった
物ごころついたときにはもう葉先が揺れていた
つい笑い声を立てるほどに
それを追うのが楽しかった
目に見えるてのひらや爪がたしかに私そのものであるように
葉が揺れるのは私の髪を風が吹くのと同じだろうか
樹があって 私がいて
その二つは実は同じことで
*
「私」と「樹」は、同じようでいて実は同じものではない。
「樹」はあくまでも大地を守る母体としての存在であり、「私」は僅かながらも迷いを伴い、樹に見守られて生きていく存在である。
樹にすべてをゆだねる赤児のような?――いや、何か途方もない太古の昔から樹に宿る言霊のような?――樹をなくしては、「私」すら存在し得ない業(ごう)のようなもの、そのように捉えることが出来なくもないだろう。
樹の下に暮らして、樹と同じものを見つめ、樹と戯れる自然の営みに融合する「私」であるのに、背後に根を張る樹そのものの容姿は決して見ることが叶わない。
樹との決定的な断絶を思い知る「私」であるが、屋根越しに枝葉を伸ばすその情景と同化することで、絶対的な依存と安住の約束を確信する。
樹よりも短い命を知り、いつかこの地をも去らなければならない運命をも悟っている。
なにものかである「私」の、限りある生への不安と諦念を、樹とのコントラストによって想い描いた心象風景。
まったく以て、美しくも静逸な詩篇群である。
*
私もそのように老いながら
少しずつ摩滅するのに違いない
そしてある日 思いもかけず
私もまたほほえんでるに違いない
*
かつて梶井基次郎が、桜の樹の下には死体が埋まっていて、それでいて水晶のように清らかな水を吸っている生の営みを幻視しているが、ここでも「私」は、同じ光景を思い描いているのは興味深い。
*
樹の下にいる私よりさらに下へ
樹は 鱗のない蛇の絡まるような
逞しい根をめぐらせている
乾いた土地の 私の知るよりずっと深い層から
音もなく水を吸い上げている
ただ そんな地中での慌ただしいいとなみが
私の目に届いて来ないだけの話だ
*
ただし、それは美しい桜の樹の狂気を想うのではなく、年老いて朽ちていく運命の美を想う幻視である。
孤高である樹への、誇と畏怖を抱きながらも。
◇『季刊 びーぐる 詩の海へ 30号』 (澪標・2016年1月20日・1,000円+税)より再録
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魔術的現代詩⑭『川・海・魚等に関する個人的な省察』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2015-11-04
釣竿を持つソクラテス――藪下明博 タイトルを見て、小笠原鳥類氏の『素晴らしい海岸生物の観察』をふと思い起こした。いや、ただ思い起こしただけで他意はない。海・生物・観察といったキーワードが重なり、何となくそれが脳裏を掠めたのであろう。 *『川・海・魚等に関する個人的な省察』八木幹夫(砂子屋書房・2015年6月1日・2,000円+税) *
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2015-11-04T21:39:23+09:00
タイトルを見て、小笠原鳥類氏の『素晴らしい海岸生物の観察』をふと思い起こした。
いや、ただ思い起こしただけで他意はない。
海・生物・観察といったキーワードが重なり、何となくそれが脳裏を掠めたのであろう。
*
『川・海・魚等に関する個人的な省察』
八木幹夫
(砂子屋書房・2015年6月1日・2,000円+税)
*
内容も全く違う。
こちらは、およそ「鳥類」とは無縁であって、主人公は「人間よりもはるかに遠い生命の記憶を持つ」魚類である。
いかにも釣り好きの詩人が上梓した詩集だけあって、文字通り川・海・魚・釣りに関する詩篇、二九篇が収録されている。
*
どうしても
泥鰌は
どぜう
でなければ/なりません
ヨソユキの裃
一張羅の燕尾服
を着るように
泥鰌
なんて
漢字で
は
感じが
出ません
(中略)
どうして?
哲学せよ
みずから
「序詩 どぜう」
*
これは冒頭に収められた詩の一部だが、どう見ても最後の二行は蛇足である。
しかし、この二行が付加されることによって、以下の詩篇に対する読者の態度が決定付けられる。
難しい哲学を感じる訳でもない。
深い洞察が内在する訳でもない。
むしろ、親父ギャグの延長線上に語られるユーモア溢れる脱力感をメインとするが、その言葉から発散される貫禄は、並みの詩人には容易く真似出来る芸当ではない。
要するに老練な詩人が、若い詩人を戒める諫言、いや酒を酌み交わしながら、柔らかな説教に浸る自虐的なシチュエーションにも似ているが、不思議と逆らうエネルギーは湧いてこない。
年の功と言えばそれまでだが、これが長年詩人として培ってきた八木幹夫の力量なのだ。
*
数万年も繰り返す
うずくような
生の快楽
さんらんたる産卵
死の陶酔
「鮭」
*
ワタシタチノタチバカラ
イワシテイタダケルナラ
アノサカナハオニデスチクショウデス
「鰯」
*
さほど面白くもない(笑)言葉遊びを繰り返しながら、それでいて「なるほど」と唸らせる響きを持つ不思議な感覚。
けれども、よくよく考えてみると「ん?」と疑問符を抱かせる結果に収束してしまう。
このノンシャランスな性質が本詩集の最大の魅力とも云えるのだが、ただし不慣れな読者には、その真意が伝わらない危険性を多く孕んでいる。
八木は、この詩集の発刊が前作から七年の歳月が経過していることを「あとがき」で述べている。
そしてその間に、あの大震災があったとも。
「私は詩をできるだけ現実から遠い位置に避難させた」と告白している通り、収録作は四篇を除いてすべて三・一一以後に書かれたものだ。
自然の持つ破壊力、それを克服しようとする人間の葛藤。
悲しみに触れ、怒りと安堵を共有させようとする人々の姿。
そして、一切を語ろうとしない、孤独な詩人の哲学もまた、自然の力そのものであろう。
タイトルの末尾を「観察」とせず「省察」とするところは実に恣意的である。
これは野菜畑から釣竿を持って戻ってきたソクラテスの、全くもって個人的な哲学書である。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ 29号』 (澪標・2015年10月20日・1,000円+税) より再録
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『ろまねすく』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2015-08-04
出口裕弘氏の訃報を聞いた。86歳だったという。ユイスマンスの『大伽藍』は、生涯忘れることが出来ない一書である。小説家としての氏は、地味でありながら、深い味わいの作品を残した。常に、詩人の魂を有していた。ご冥福をお祈りする。何もできないので、過去に書いた書評を再録する。『ろまねすく』出口裕弘(1990年3月10日・福武書店・1,400円)
書評
あおい君と佐藤君と宗男議員
2015-08-04T04:03:17+09:00
86歳だったという。
ユイスマンスの『大伽藍』は、生涯忘れることが出来ない一書である。
小説家としての氏は、地味でありながら、深い味わいの作品を残した。
常に、詩人の魂を有していた。
ご冥福をお祈りする。
何もできないので、過去に書いた書評を再録する。
『ろまねすく』
出口裕弘
(1990年3月10日・福武書店・1,400円)
幽界彷徨――藪下明博
地下鉄の車内で男は、二人連れの客が執拗にある人物の悪口雑言を交わす声に邪魔されて目を醒ます。
いたたまれない気持ちになり下車し、あそこへ行こうとするのだが、そのあそこが一体何処なのかさっぱりと思い出すことが出来ない。
おまけに駅名が書かれてある筈のプレートの文字さえ、無意味な模様にしか見えず全く判読することが出来ない。
茫然自失のまま改札口を飛び出し、暫く街を歩いているとどうしてもブランデーが飲みたいと云う衝動に駆られる。
ある店を見つけ中に入ると――、何とそこには三〇センチ程にも満たない、ミニアチュールの裸女達が泳ぎ回る巨大な水槽が存在した。
* * *
冒頭の『後宮譚』は以下、絶えず非現実的(ロマネスク)なエピソードの繰り返しと、朦朧とした背景に浮遊する、明確な輪郭を欠いた、曖昧模糊とした筋の運びを頼りに書き綴られたモノローグてある。
しかしながら読者は、此処に一切の不条理と云うものを感じ無い。
何故であろうか――?
つまり此処は夢の中の世界なのである。
或いは夢の中の世界に似せた、夢のような世界だからである。
かつて島尾敏雄は〃夢の系列〃に属する作品群に於いて、夢特有とも云うべき不条理に満ちた常識を敢えて導入することにより、夢本来のリアリティーを醸し出す試みを行っている。
夢を回想として〃語る〃のでは無く、あくまでも〃再現〃し、読み手と同時に〃体験〃する事によって始めて夢そのものを伝達出来る……とでも云ったところか。
ところが本書ではその夢の手法、つまり夢をアナロジーとして利用することで、最も緊密な、或いは遥かに超越した別の世界を描く事を試みている。
他の二篇、『天が落ちた日』、及び『幻鏡』に於いても、同様のエクリチュールに依ることは明白であろう。
例えば、読後のぼんやりとした不明瞭な記憶、始終切迫した悔恨と不安の妄想、鮮明に残像する個々のヴィジョン(黄金の炎に包まれるパゴダの背景や、緩やかに蛇行する濃紺の川、鏡のなかで犯すエロティックな行為、等)は、明らかに夢を超越した世界、いわば冥府の世界を写像しているに違いない。
しかも、所収の三作は恰かも全く繋がりの無い別個の作品と見せ掛けて置きながら、実は幽界への旅立ちの時間的ヒエラルキーを形成するに及んでいる。
『後宮譚』は死を目前に控えた男の意識不明下の悪夢であり、『天が落ちた日』は幻視の都市を彷徨した末の死の瞬間に於ける幻夢、『幻鏡』は異界へ参入後の死の認識と悔恨にうなされる妖夢にそれぞれなぞられるのでは無かろうか。
下手をすれば辻褄の合わない通俗幻想小説に陥り兼ねない分野であるが、見事に幽界の再現に達成している所以は、やはり出口作品ならではの、手法とモチーフの勝利に他なるまい。
『BGM』創刊号
幻想文学出版局
(1990年8月1日・680円)
「新刊バトルロイヤル」より再録。
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『澁澤龍彦の手紙』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2015-08-04-1
もう一つ。『澁澤龍彦の手紙』出口裕弘(朝日新聞社・1997年6月1日・2,000円+税)
書評
あおい君と佐藤君と宗男議員
2015-08-04T02:00:35+09:00
『澁澤龍彦の手紙』
出口裕弘
(朝日新聞社・1997年6月1日・2,000円+税)
生真面目さの魅力――藪下明博
澁澤はノーテンキで、出口は生真面目な人間―― 例えばそう考えてみる。
旧制浦和高校時代からの知り合いで、四十年にも及ぶ二人の交友関係に限って見た場合、世間の巷説はともかく、確かにこの公式が成り立つに違いない。
また、小説家としての二人を見た場合 ―― これもまったく同様の式が成り立つだろう。
とかくライバル視される二人の関係ではあるが、そもそも両者は、性格も質も(作品の)異なる別種の人間と考えて良さそうだ。
〃近くて遠い変則の友人〃これまた、言い得て妙である。……
本書は著者宛に送られた澁澤の手紙をポツポツ紹介しながら、出会いから死別までを回想した鎮魂のエッセーである。
澁澤の未公開書簡の内容も興味深いが、寧ろ本書の真意はそこにはなく、澁澤の手紙によって投影される〃著者自身の自伝〃という印象が極めて濃厚である。
これは澁澤の名に便乗した、軽々しい読み物などでは決してないのだ。
著者が小説家を志す一方、非常勤講師の職に就く若き日の屈託した様子やら、三島由紀夫に太宰論をぶちまけて毒付いたくだり、また巴里祭と称する古き良き時代の男女の集いのエピソードなど、話題には事欠かない。
しかし何といっても本誌50号でもテーマの中心となった、澁澤の剽窃問題に対する氏の確固とした見解は無視できまい。
澁澤ファンにとっては、大方どうでも良いこの問題に(澁澤の魅力は別の次元にあるという意味だが……)、その見事な力量に脱帽しながらも、どうしても納得が行かないとする氏の意見は、少々堅いが正論である。
しかもこの氏の〃生真面目さ〃が、澁澤に比肩する最大の魅力なのだが。…
『幻想文学』51号
幻想文学企画室
(1997年11月15日・1,800円+税)
新刊展望97.5-8 より再録。
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『バス停に立ち宇宙船を待つ』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2015-08-01
孤独を感じる詩――藪下明博昔、友部正人と友川かずきを混同していた時期があった。……なんて、冒頭から笑えない冗談で申し訳ないが、同じ「友」という苗字を持つ同い年の二人は、歌い方も声も詩風も違うフォーク歌手だけれど、レコードのジャケットを見る限り、その風貌はよく似ていた。ついでに言うならば、どちらもかつてはかなりの男前であった。『バス停に立ち宇宙船を待つ』友部正人(ナナロク社・2015年3月1日・一五〇〇円+税)
その他詩集
あおい君と佐藤君と宗男議員
2015-08-01T09:37:22+09:00
昔、友部正人と友川かずきを混同していた時期があった。
……なんて、冒頭から笑えない冗談で申し訳ないが、同じ「友」という苗字を持つ同い年の二人は、歌い方も声も詩風も違うフォーク歌手だけれど、レコードのジャケットを見る限り、その風貌はよく似ていた。
ついでに言うならば、どちらもかつてはかなりの男前であった。
『バス停に立ち宇宙船を待つ』
友部正人
(ナナロク社・2015年3月1日・一五〇〇円+税)
そんな昔話はどうでもいいが、友部正人の詩集が出たというので、さっそく手にとって見た。
ポケットに入る持ち運び便利な新書版サイズ。
装丁は質素だが小口は金付けされていて、なかなかセンスがいい。
5年ぶりの新詩集だという。
フォーク歌手、いやシンガー・ソングライター(もはやこの二つの言葉は死語に化したか?)の出す詩集には、今まで大きく期待を裏切られてきた。
あれほど熱く心酔し、涙して聴いた歌だったのに、メロディーが外され言葉だけが独立してしまった途端、どうにも言いようのない喪失感に襲われてしまうのだ。
これは詩ではない……と。
たとえ素晴らしい歌であっても、必ずしも素晴らしい詩で構成されているとは限らない。
当たり前のことであるが、当時の自分はそれが良く分からなかった。
今回の友部正人の詩集について、これらの詩に曲がつけられる予定のものか、あるいはすでに付けられているものなのか?
その辺の事情は久しく彼の歌から遠ざけていたのでよく知らない。
しかし、どれもこれも一篇の「詩」として立派に成立していることは確かだろう。
中には曲を意識したリフレインを多用したものや、語りを基調として成り立つメロディーのない「歌」なども見られるが、これが友部正人の特徴といえば特徴なので、そこは好き嫌いがはっきり分かれることも否めない。
*
英語が散らかした部屋に
日本語がやって来た
日本語はテーブルの上の本を開きこう言った
「歌は語れ、詩は歌え」
(『朝から英語のお客さん』)
*
詩にメロディーを付けて歌うこと、あるいは抑揚をつけて朗読することについて、友部の詩に触れる際にいつも感じることがある。
果たして、声を出して歌う必要があるのだろうか?……と。
こんなことを言っては大変恐縮なのだが、黙読している時さえあの声が頭にこびりついて離れない。
賛否はあろうが、これもフォーク歌手という側面、いや正面を持った詩人に与えられた運命だろう。
*
バナナは真夜中でも黄色かった
リンゴは真夜中なのに赤かった
ぼくは果物屋の前にいた
ぼくが見つけた場所はそこだった
目に見えないバスが近づいて来る
(『宇宙船』)
*
多くのフォーク歌手がそうだったように、友部正人も少なからず反戦を歌ってきた。
直接的なメッセージを発するものもあれば、間接的に訴えるものもある。
しかし、不本意だろうが友部正人の本質はそこには無いような気がする。
だから『八時十五分』のような詩はどうしても好きになれない。
その代わり『左足と右足』のような、孤独を感じることが出来る詩は大好きである。
◆『季刊 びーぐる 詩の海へ 28号』 (澪標・2015年7月20日・1,000円+税) より再録
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魔術的現代詩⑬『エフェメラの夜陰』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2015-04-18
詩(死)の幻像――、として レヴィ=ストロースは、ボロロ族に関する処女論文の中で、とりわけそれ自体は目に見えるものではない社会組織が、どのように目に見える形を与えられるかと云うことに関心を注いだとされる。(*)エフェメラ――儚い一瞬の時――に魅了された詩人・林美脉子の関心事も、根源的にそれとほぼ同じ位相にあると言ってよいだろう。語り得ぬものを如何に語るか?そして何を語るか?これら二つの主題はそれぞれ独立したテーマとして扱うものではなく、二者択一のツールとして利用されるものではない。『エフェメラの夜陰』林美脉子(書肆山田・2015年1月15日・二二〇〇円+税)
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2015-04-18T15:46:04+09:00
レヴィ=ストロースは、ボロロ族に関する処女論文の中で、とりわけそれ自体は目に見えるものではない社会組織が、どのように目に見える形を与えられるかと云うことに関心を注いだとされる。(*)
エフェメラ――儚い一瞬の時――に魅了された詩人・林美脉子の関心事も、根源的にそれとほぼ同じ位相にあると言ってよいだろう。
語り得ぬものを如何に語るか?
そして何を語るか?
これら二つの主題はそれぞれ独立したテーマとして扱うものではなく、二者択一のツールとして利用されるものではない。
『エフェメラの夜陰』
林美脉子
(書肆山田・2015年1月15日・二二〇〇円+税)
何を表現すべきは、常に如何に表現すべきか?
という課題を孕んでおり、すなわちこの解答を以ってして詩人の個性、或いは詩そのものの本質が表出されるものと確信する。
表題作「エフェメラの夜陰」は、〈アララ鸚鵡が啼くとポロロ族(ママ)は輪廻のひと巡りを終わらせる〉という、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』からの引用で始まる。
*
ベッドを囲む深い昏森に 原始の陰獣が呻き ポロロ族の顔は虚ろに振り向きねじれ嗤う 緩やかに無化されていく血脈のぬくもりの 死のまなざしの奥深く
*
基底を流れるテーマは《死》の形象である。
しかしこの死は、絶対的終焉へと向かうそれではなく〈おいで おいで〉とリフレインされるアララ鸚鵡の誘いに見られる如く、永遠に循環する輪廻を描いた《死》なのだ。
続く「月虹」は、痛みという〈慟哭の果てに開かれてくる死の相貌〉を具現化したもので、ここでは〈死が未聞の高みに届く/その位置〉を痛み(生)との痛烈な対比によって照合されている。
同じ死を扱っていても、輪廻という客観的視点とは遠く、痛みという個の感覚を訴えることにより、《死》がより身近に、そして生々しく表出されている。
そして、この客観と個との間を彷徨するのが、各篇に度々現出する〈リル〉という存在なのであろう。
*
死の微分に触れ得ない質の招きの
存在の残骸であるリル
風の噂の痕跡さえ残さずに
現夢を不在に転化する
リル (招きのリル)
*
風の噂のリル、少女の姿に還ったリル、相として幻映するりーる、絶対零度の雪陰に潜むリル、滅びの呼び声に射当てられ、自ら明け渡し消えていったリル、超無限領域に神話として蘇生したリル……。
リルの存在は、ボロロ族の想起する動物たちの総称として捉えられ、そして超越的・魔術的な〈相〉として本書には不可欠な存在である。
それだけに、上海帰りと修辞されたその一点だけが遺憾でならない。
他に極寒の地に色濃く土着した神話とも回想ともつかない詩(死)群、全十五篇を納めている。
極めて真正なる詩集である。
(*) 『レヴィ=ストロース 構造』渡辺公三著・講談社より
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魔術的現代詩⑫『森の明るみ』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2015-01-18
祈りの手法それにしても詩人の言葉の中には、隠された「祈り」が随所にみられる。直接的な修辞を避け、あたかも祈る姿を隠すかのように、慎重に言葉を配列する。これは、自らに課した掟、もしくは儀式であろうか? それとも、詩人特有のはにかみであろうか?――『森の明るみ』須永紀子(思潮社・2014年10月31日・2,200円+税)
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2015-01-19T03:12:49+09:00
それにしても詩人の言葉の中には、隠された「祈り」が随所にみられる。
直接的な修辞を避け、あたかも祈る姿を隠すかのように、慎重に言葉を配列する。
これは、自らに課した掟、もしくは儀式であろうか?
それとも、詩人特有のはにかみであろうか?――
『森の明るみ』
須永紀子
(思潮社・2014年10月31日・2,200円+税)
*
どこから入っても
いきなり深い
そのように森はあった
抜け道はふさがれ
穴は隠され
踏み迷う(「森」冒頭)
*
この深い森は、詩人自らの境地を示す隠喩である。
「出口は地上ではなく他にある/そこまではわかったが/急激に落下する闇に/閉ざされてしまう」(「森」末尾)。
ささやかな光の可能性を見出しながらも、その後に降りかかる災禍への憂い。
この払拭することの叶わない不安への胸騒ぎが「森」の根底には絶えず流れている。
反して「小舟」では、この森が泥沼へと変節し「少しでも先へ進みたいが/沼泥をかくもどかしさ」を抱きながら「それでも北へ向かって漕ぎつづける」希望へと前進する。
「伝えたいことがあるのだ」(「小舟」末尾)と断言するように、この言葉は決断と同時に己を鼓舞する呪文のように響き渡る。
ベクトルは確かに希望へ向いているのだが、その流れは時に不安定な様相を呈している。
タイトルにある『森の明るみ』は、この不安定な境地を示唆しているのだと言えなくもない。
森は深ければ深いほど、もしくは暗ければ暗いほど、そこに囲まれるわずかな明るみは光輝く楽園に比喩されよう。
しかしそれは、逆に森の深さを意味することでもあるのだが、迷い人はその真実を自らの目で確かめる術がない。
まるで怖い話を親にせがむ子供のように、絶望と希望の両義性が紙一重となって潜んでいるかのようだ。
この森の明るみを直視することは、地上の目では手には負えない。
この事実を俯瞰できるのは、幻視の目であり、「時の小径」であり、「鳥の住む部屋」であり、そして「空の庭」なのである。
どうやらこの至高点に存在するユートピアを、詩人は苦悩の果てに掴み掛けているようだ。
*
踏み出した瞬間にあらわれ
着地と同時に消え
迷えば切り立つ崖の上に
全身が石と化す場所もある
小経の先、
空の庭へ(「時の小経」冒頭)
*
畏れは魔術的意識の原動力となり、祈りという儀式へつながる。
しかも詩人は、その畏れを払いのけようとしながらも、時にその恍惚たる状態を引き延ばそうとする矛盾をはらんでいる。
詩人はいったい何を畏れているのだろうか?
いや、詩人は何に対して祈っているのだろうか?――
この形容しがたい事由が一言で言い表すことができるならば、詩人は詩を書く必然性を失うだろう。
本詩集もまた、その例外では決してない。
詩を書くこと、詩を読むことは、まさに詩人・須永紀子に与えられた祈りの手法なのである。
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魔術的現代詩⑪『仁王と月』
https://muneobungaku.blog.ss-blog.jp/2014-07-08
夢想に耽る月は和紙で出来ている。松の梢にあり、黄蘗色に発色している。石は庭の中を廻り、隅鬼は煩悩の中へ入り込む。そして仁王は、裏庭で桃に袋をつけている。……『仁王と月』浅井眞人(ふらんす堂・2014年4月4日・2,500円+税)
魔術的現代詩
あおい君と佐藤君と宗男議員
2014-08-28T14:54:12+09:00
月は和紙で出来ている。
松の梢にあり、黄蘗色に発色している。
石は庭の中を廻り、隅鬼は煩悩の中へ入り込む。
そして仁王は、裏庭で桃に袋をつけている。……
『仁王と月』
浅井眞人
(ふらんす堂・2014年4月4日・2,500円+税)
なんと魅惑的なシチュエーションであろうか!
仁王と月と、架空の古刹にまつわる伽藍縁起を、妄想とも現実ともつかない境界域に戯れ、奔放でユーモラスな筆致で展開する物語詩。
これほどダイナミックな詩集には、滅多にお目に掛かれない。
*
月の満ち欠けは仁王の呼吸によっている
それは交互に繰り返して
この世で一度も途切れたことがない(「序」)
*
「序」として掲げられたこの原理に基づき、以後「仁王と月」は綴られていく。
「都」「石」「鬼神」「狐」とサブタイトルが付されているが、その主役はやはり仁王と月である。
仁王とは、一般に山門などを守る金剛力士のことで、阿吽の形を象る二体一具の像である。
しかしここでは、月のメンテナンスを担う万屋であり、時に壊れた月を修理し、時に他所の国へ月を届けに行く。
変幻自在なのであろう。
年中深酒をして、不動ならぬ、自由闊達に動き回る生身の者として描かれる。
*
仁王は 山に腰掛けて炭焼きをした
脚が炭にまみれたので 満月が光を出して洗った
いつもより光をたくさん使ったので しばらく暗い月がつづいた(「仁王と月」・四)
*
一方月は、俗世を照らす照明器具である。
ある時は反り橋となり、ある時は古生姜で、ある時は真桑瓜となる。
月には寿命があり、古い月は余所へ売りに出される。
仁王が息を吹くと、月は移動する。
仁王は、三十種類の月を持つらしい。
何と滅茶苦茶な物語だろか?
――石は、塀で囲まれた庭で逃げ隠れし、雪隠へ行ったり、厨へ行ったり、座敷の下で説教を聞いたりする。
鬼は返答を避けるため、自ら顔を取り、どうしたことか朱を好む。
狐・牛頭・馬頭など……土俗に根差す魑魅魍魎の喧騒が、心地よい攪乱と錯綜を以て描かれている。
*
程よい石を見つけてのせると 漬物桶がぎゅうと鳴った
あくる日 漬物石がなくなっていた 捜すと
辻の地蔵の背中が黄色くなっていた(「石」・壱)
*
まるでギリシャ神話を読んでいるかの錯覚に陥る。
いや、古事記の類であろうか?
閃きは止めどなく溢れ、そこには合理性の関与する隙を一切与えない。
詩の本領ともいうべき魔術性に満ちた、類まれな郷土史とでも表現しようか?
夢想に耽ること。
現代詩が置き忘れた詩の領分を、詩人は存分に楽しんでいるようだ。
*
月光させば連子窓 ぐつぐつ生える鬼の髭(「都」・八)
*
随所に七五調の短詩が現れ、これがまた優雅で老練な洒脱さが見事である。
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