魔術的現代詩⑥『空の庭、時の径』 [魔術的現代詩]
ブルトンは、「怖れこそは魔術的意識の第一の原動力だった」としている。(『魔術的芸術』P100)
そしてそれは、性的な心の奥底に結びついており、恐怖を払いのけるとともに、その恍惚たる性格を引き延ばそうとしたものだととも。
ここには、狼男の話をせがむ子供のように、感情の両義性が隠されているのだと。
この怖れに対応する一つは「儀式」≒「祈り」であり、これは宗教と魔術とに共通して見られるものだ。
ただし、前者は「諦念」を前提とし、後者は「反抗」を前提とするあまりにも人間的な行為である。
これらは、厳密に区別することを許さないが、どちらにせよ名付けようのない怖れや不安から、自らの力で解消しようとする思いが、「言葉」≒「詩」を書くという行為に内在するのではないだろうか?
『空の庭、時の径』
須永紀子
(書肆山田・2010年4月10日・2,200円)
本書は、ことさら「祈り」を前面に押し出した詩集ではない。
むしろ、全編を通した印象としては「記憶」がテーマになっていることがすぐに理解される。
思い出としての記憶。
記録としての記憶。
そして、空想としての記憶など……である。
ひらくたびに
一つのことばが別のことばに置換され
新しい相があらわれる
黒い表紙の本
〈光〉が〈生命〉に
〈生命〉が〈ロゴス〉に
文字は読むそばから消え
点になって浮かびあがり
新しい行を作る
(「記憶の書」より)
生まれて間もない足で
地面を踏みしめたとき
世界に高さが加わった
積みあげられた干し草
窓の外の三日月
彼方でスイッチが入り
見られる者になった
(「星の下で」より)
では、その記憶とは何だろうか?
ジャック・モーデュイは、原初の人間が目の前で起こった事故と、その直前に見た動物との結びつきを打ち立てた時、その深い感情から芸術は生まれたとする。(『現代美術の4万年』)
ブルトンは、この抽象化作業が芸術誕生以前の精神を持っていた魔術的躍動を、類推的情動に変容せしめたのだと証言している。(P105)
そして、この注意を向けることに注意を向けたことから、記憶術が生まれたのだと。
つまり記憶とは、意識的にも、無意識的にも「祈り」の前提条件として必要不可欠なものに他ならない。
記憶を喚起するということは、つまるところ「祈り」への潜在的な欲望の現れなのである。
果てまでたどりついたとき
語ることばをわたしは得るだろう
ことばの要らない日々を過ごすことが
ことばを忘れることにつながってゆかないように
目に映るものを記憶するため
わたしはわたしの内部で声をあげる
ことばを組み立て筋を通し
語るべき時が来るのを待つことが
歩くことと同時になされる
(「囲繞地にて」)
それにしても、詩人は何に対して祈るのであろうか?
いや、何に対して怖れを抱いているのだろうか?
この形容しがたい対象が、一言で言い表すことが可能ならば、詩人は一切詩などというものを書かないであろう。
本詩集もまた、その例外ではない。
おそらく、何度も何度も推敲して、言葉を選び、組み替え、破棄して、そして再び言葉を取り上げる。……
どこに完成形があるのか?
その答えは詩人自身にもわからないだろう。
それが、祈ることに対する、真摯な対応であるという以外は。
いたずらな詩語の羅列に甘んじることのない、純化された言葉の表出。
須永紀子の詩には、原初の詩の精神を強く感じさせる。
そしてそれは、性的な心の奥底に結びついており、恐怖を払いのけるとともに、その恍惚たる性格を引き延ばそうとしたものだととも。
ここには、狼男の話をせがむ子供のように、感情の両義性が隠されているのだと。
この怖れに対応する一つは「儀式」≒「祈り」であり、これは宗教と魔術とに共通して見られるものだ。
ただし、前者は「諦念」を前提とし、後者は「反抗」を前提とするあまりにも人間的な行為である。
これらは、厳密に区別することを許さないが、どちらにせよ名付けようのない怖れや不安から、自らの力で解消しようとする思いが、「言葉」≒「詩」を書くという行為に内在するのではないだろうか?
『空の庭、時の径』
須永紀子
(書肆山田・2010年4月10日・2,200円)
本書は、ことさら「祈り」を前面に押し出した詩集ではない。
むしろ、全編を通した印象としては「記憶」がテーマになっていることがすぐに理解される。
思い出としての記憶。
記録としての記憶。
そして、空想としての記憶など……である。
ひらくたびに
一つのことばが別のことばに置換され
新しい相があらわれる
黒い表紙の本
〈光〉が〈生命〉に
〈生命〉が〈ロゴス〉に
文字は読むそばから消え
点になって浮かびあがり
新しい行を作る
(「記憶の書」より)
生まれて間もない足で
地面を踏みしめたとき
世界に高さが加わった
積みあげられた干し草
窓の外の三日月
彼方でスイッチが入り
見られる者になった
(「星の下で」より)
では、その記憶とは何だろうか?
ジャック・モーデュイは、原初の人間が目の前で起こった事故と、その直前に見た動物との結びつきを打ち立てた時、その深い感情から芸術は生まれたとする。(『現代美術の4万年』)
ブルトンは、この抽象化作業が芸術誕生以前の精神を持っていた魔術的躍動を、類推的情動に変容せしめたのだと証言している。(P105)
そして、この注意を向けることに注意を向けたことから、記憶術が生まれたのだと。
つまり記憶とは、意識的にも、無意識的にも「祈り」の前提条件として必要不可欠なものに他ならない。
記憶を喚起するということは、つまるところ「祈り」への潜在的な欲望の現れなのである。
果てまでたどりついたとき
語ることばをわたしは得るだろう
ことばの要らない日々を過ごすことが
ことばを忘れることにつながってゆかないように
目に映るものを記憶するため
わたしはわたしの内部で声をあげる
ことばを組み立て筋を通し
語るべき時が来るのを待つことが
歩くことと同時になされる
(「囲繞地にて」)
それにしても、詩人は何に対して祈るのであろうか?
いや、何に対して怖れを抱いているのだろうか?
この形容しがたい対象が、一言で言い表すことが可能ならば、詩人は一切詩などというものを書かないであろう。
本詩集もまた、その例外ではない。
おそらく、何度も何度も推敲して、言葉を選び、組み替え、破棄して、そして再び言葉を取り上げる。……
どこに完成形があるのか?
その答えは詩人自身にもわからないだろう。
それが、祈ることに対する、真摯な対応であるという以外は。
いたずらな詩語の羅列に甘んじることのない、純化された言葉の表出。
須永紀子の詩には、原初の詩の精神を強く感じさせる。
2013-08-18 22:43
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