SSブログ

魔術的現代詩⑩『死語のレッスン』 [魔術的現代詩]

韻文か? 散文か? ――藪下明博
                

死語とは、単に使われなくなった言葉ではなく、時代の中から忽然として消えてしまった言葉、辞書に収録される暇もなく失われてしまった言葉であると、建畠晢は定義する。
ゆえに、死語には他のいかなる言葉にも期待できない夢が密かに宿っている筈だとも。



死語のレッスン.jpg


『死語のレッスン』
建畠晢
(思潮社・2013年7月25日・2,400円+税)


本詩集と同タイトルの連作「死語のレッスン」は、その夢想の光景を追ったささやかなレッスンなのだと「まえがき」に明記されている。
『余白のランナー』の「あとがき」以来、説明することを忌避してきた感のある氏にしては珍しく、ここには意識された転換が明白に顕在している。

建畠晢といえばこれまで、ユーモアを秘めたニヒリズム、斜から構えた批評的精神、諧謔に満ちたペダントリーなど、飄々たる風貌の哲学詩人のスタイルを貫いてきた。
散文詩という形式にフィットさせた物語性を主軸に、看過されない感覚を探求し続けてきた詩人である。
本詩集は、どうやらその仕事も一段落したのか、未明の境地へと立ち向かうポジティブさが覗える。
あるいは、形骸化に墜することへの、自己警鐘かも知れないが。――


   *

轟云々、下駄云々
轟云々、下駄云々

緑の布に生まれてきた女は
遅い朝に外出する
素足に下駄をつっかけて

轟か、下駄か
轟と、下駄……
(「轟云々、下駄云々」より)

   *



この平明なリフレイは、かつての氏には決して見られなかったものだ。
しかも、韻文スタイルで、一篇の長さがやたらと長いものも散見する。
どうにも書き過ぎの感は否めないのだが、自らレッスンと前振りをしているのだから、それはそれで面白い。
娼婦・コキュ・ジェラシー・奥さん・燐寸・アヴァンギャルド・さよなら三角、また来て四角。
……一見、どこに夢想が潜んでいるのか見落としがちな死語群ではあるが、そこにはしたたかな氏の罠が臭う。
迂闊に近寄ると、きっと痛い目に合うだろう。

かつて「茄子の構造」を解明したような、おどけた批評精神はすっかり影を潜めてしまった。
その代わりと言っては何だが、熟練の域に達した名詩人の手腕が際立つ。


   *

麗しい伝統が、今も守られている。切断については誰も語ろうとはしない。これは実に麗しい伝統である。もちろん、あらゆるところに切断はある。
(「麗しき伝統」より)

   *



韻文へ向かうべきか? 散文に邁進すべきか? 
このレッスンの行き先は「風に吹かれている」と、ふと死語が思いついた。





◆『季刊 びーぐる 詩の海へ 22号』 (澪標・2014年1月20日・1,000円+税) より再録。

nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 2

ヴェルデ

風に吹かれて…ならボブ・ディランですが。
でも私にとって最も印象的なボブ・ディランの曲は
「ハリケーン」。ご冥福をお祈りします。そして、袴田さんは
出獄できてよかった。

「時代の中から忽然として消えてしまった言葉、辞書に収録される暇もなく失われてしまった言葉」
それは流行にすらならずに消えて行ってしまった言葉なのでしょうか。
ITに弱い辞書編纂者はラインで飛び交う言葉を再録できないかもしれません。日本語はとりわけ変化が速いですし。ごきげんよう。

by ヴェルデ (2014-05-08 01:33) 

あおい君と佐藤君と宗男議員

>ヴェルデ様

このところ、’60年代のフォークにジーンとしてしまいます。
ジーンとするから、ジーン・ハックマン。
いや、これは映画俳優でしたね。(笑)
by あおい君と佐藤君と宗男議員 (2014-07-14 01:12) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。