魔術的現代詩⑦『タラマイカ偽書残闕』 [魔術的現代詩]
魔術的でないものを、魔術的に見せかけようと苦心した作品も、つまるところ魔術的意識から生じた副産物である。
あるいは、魔術的でないものを、無理やり魔術的に解釈しようとする行為も同じで、両者には大きな隔たりは見られない。
どちらにせよ、この二つは本来の魔術的意識からは明確に区別する必要がある。
ただし、害毒にならない限りにおいて、これら「遊び心」から生じるであろう副産物も、今のところ魔術的文学の範疇においても構わないだろう。
イースター島のモアイ像を見てもわかるとおり、当時の島民には微塵も「遊び心」はなかったなどと、だれが断言できるであろうか?
『タラマイカ偽書残闕』
谷川俊太郎
(書肆山田・1978年9月15日・1,200円)
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「不死の人」は、「偽書」という形式をとって表現された、もう一つの世界である。
また、「ブロディーの報告書」も、その形式において同じである。
前者は、ポープの『イリアッド』版に挟まれていたとする原稿をもとに、後者はレインの『千夜一夜物語』の中から発見された手稿をもとにしているという前提で物語が進む。
谷川俊太郎は、これを俗物的な色彩をこめて「ふとしたきっかけで知りあった米国籍の男」から入手したとする。
そしてその出処は更に複雑である。
とある老船員が半世紀も前に見つけたタラマイカ語を、のちに口承で誰かに語り、それを書き写したというものを、亡き父親の古手紙から見つけたある人物が、そのことをさらに書き残したものを、米国籍の男が私に渡したという。……
言語もタラマイカ語からスウェーデン語に訳され、ウルドゥ語に重訳されたものを更に英語に訳し、最終的に日本語にしたものだという。
<私>という主語が重複して表現されており、まるで「建築基準法」の条文を読む時のように、カッコ書きされたセンテンスを丁寧に追っていかなければ意味が通じない。
これは、「遊び心」をふんだんに取り入れた谷川流の「創作」である。
まったく、初めからいかがわしいのである。
本詩集は、この「いかがわしさ」を前提に読まなければ、本当の意味での詩人の真意は伝わらないだろう。
本来の意味での魔術的意識との区別が必要だとするのは、そのためである。
★
わたしの
眼が
遠くへ
行った。
わたしの
口は
ここに
開く。
わたしの
耳が
遠くへ
行った。
わたしの
口は
ここで
語る。
(Ⅰ「そことここ」より)
★
記憶せよ
初めての名を
もたらしたものの名を。
その名は
キウンジ。
形なく
それはひそむ
太陽に
果実に
貝に
小石に
あなたの頭に似て
丸く
終わっているものの
中に。
(Ⅴ「名」より)
★
まさに、創生を模した創生といえよう。
古文書らしい古文書に出来上がっている、と言ったほうがいいかもしれない。
観念の秩序と、自然の秩序と同一化したかのように思われる魔術的思考を、谷川は綿密な計算で「偽書」として創世したのではないか?
……とも感じるが、あまりにも出来すぎた表現であり、過剰なまでに成り済まそうとするその姿勢にはかえってユーモアさえ感じる。
谷川俊太郎には『定義』という詩集がある。
詳細な散文を書くことによって、詩における曖昧さからの脱却を試みた意欲作だが、本詩集は原初の人間が思い描いた言葉の定義を、原初の人間のまなざしで表現しようと試みたもの、とも言えるだろう。
巻末に詳細な「注記」が記されている点が興味深い。
これは、あくまでもこの古文書が「本物」であると見せかける体裁とも解釈できるが、実はこの中身こそが谷川の言葉の「定義」なのである。
<わたし>の重層体――(前略)言葉そのものが本来、一個の<わたし>を正確に規定できぬ以上、あらゆる言語は人格的なものから、無人格なものへの通路に過ぎぬが、同時に言語なるものは完全に無人格的なものの実現を阻むはたらきをもつ、(後略)
どうやら詩人の意図は、このあたりに潜んでいるようだ。
あるいは、魔術的でないものを、無理やり魔術的に解釈しようとする行為も同じで、両者には大きな隔たりは見られない。
どちらにせよ、この二つは本来の魔術的意識からは明確に区別する必要がある。
ただし、害毒にならない限りにおいて、これら「遊び心」から生じるであろう副産物も、今のところ魔術的文学の範疇においても構わないだろう。
イースター島のモアイ像を見てもわかるとおり、当時の島民には微塵も「遊び心」はなかったなどと、だれが断言できるであろうか?
『タラマイカ偽書残闕』
谷川俊太郎
(書肆山田・1978年9月15日・1,200円)
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「不死の人」は、「偽書」という形式をとって表現された、もう一つの世界である。
また、「ブロディーの報告書」も、その形式において同じである。
前者は、ポープの『イリアッド』版に挟まれていたとする原稿をもとに、後者はレインの『千夜一夜物語』の中から発見された手稿をもとにしているという前提で物語が進む。
谷川俊太郎は、これを俗物的な色彩をこめて「ふとしたきっかけで知りあった米国籍の男」から入手したとする。
そしてその出処は更に複雑である。
とある老船員が半世紀も前に見つけたタラマイカ語を、のちに口承で誰かに語り、それを書き写したというものを、亡き父親の古手紙から見つけたある人物が、そのことをさらに書き残したものを、米国籍の男が私に渡したという。……
言語もタラマイカ語からスウェーデン語に訳され、ウルドゥ語に重訳されたものを更に英語に訳し、最終的に日本語にしたものだという。
<私>という主語が重複して表現されており、まるで「建築基準法」の条文を読む時のように、カッコ書きされたセンテンスを丁寧に追っていかなければ意味が通じない。
これは、「遊び心」をふんだんに取り入れた谷川流の「創作」である。
まったく、初めからいかがわしいのである。
本詩集は、この「いかがわしさ」を前提に読まなければ、本当の意味での詩人の真意は伝わらないだろう。
本来の意味での魔術的意識との区別が必要だとするのは、そのためである。
★
わたしの
眼が
遠くへ
行った。
わたしの
口は
ここに
開く。
わたしの
耳が
遠くへ
行った。
わたしの
口は
ここで
語る。
(Ⅰ「そことここ」より)
★
記憶せよ
初めての名を
もたらしたものの名を。
その名は
キウンジ。
形なく
それはひそむ
太陽に
果実に
貝に
小石に
あなたの頭に似て
丸く
終わっているものの
中に。
(Ⅴ「名」より)
★
まさに、創生を模した創生といえよう。
古文書らしい古文書に出来上がっている、と言ったほうがいいかもしれない。
観念の秩序と、自然の秩序と同一化したかのように思われる魔術的思考を、谷川は綿密な計算で「偽書」として創世したのではないか?
……とも感じるが、あまりにも出来すぎた表現であり、過剰なまでに成り済まそうとするその姿勢にはかえってユーモアさえ感じる。
谷川俊太郎には『定義』という詩集がある。
詳細な散文を書くことによって、詩における曖昧さからの脱却を試みた意欲作だが、本詩集は原初の人間が思い描いた言葉の定義を、原初の人間のまなざしで表現しようと試みたもの、とも言えるだろう。
巻末に詳細な「注記」が記されている点が興味深い。
これは、あくまでもこの古文書が「本物」であると見せかける体裁とも解釈できるが、実はこの中身こそが谷川の言葉の「定義」なのである。
<わたし>の重層体――(前略)言葉そのものが本来、一個の<わたし>を正確に規定できぬ以上、あらゆる言語は人格的なものから、無人格なものへの通路に過ぎぬが、同時に言語なるものは完全に無人格的なものの実現を阻むはたらきをもつ、(後略)
どうやら詩人の意図は、このあたりに潜んでいるようだ。
2013-09-15 16:30
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