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魔術的現代詩①『魔術的建築』の可能性 [魔術的現代詩]

『魔術的』という概念が頭から離れない。
文学における魔術性、とりわけ現代詩における魔術性について、以下取り留めもなく考察していきたいと思う。
「魔術的」という概念そのものが、捉えどころのない不明確な概念であるため、まずはイントロダクションとして、以下の論考を引用する。
これは、『建築雑誌』(2009年9月号)に掲載された論考の元原稿で、紙面の都合で半分ほど割愛した部分を含む。
アンドレ・ブルトンとジェラール・ルグランとの共著『魔術的芸術』に倣って論を進めたもので、終始「魔術的建築」という概念を念頭に書かれたもの。
これを「魔術的文学」に置き換えて読んだとしたらどうなるか?
果たしてどうなるかわからないが、まずは全文を引用する。(誤字脱字は、追々訂正の予定)

魔術的芸術.jpg
『魔術的芸術』〔普及版〕 アンドレ・ブルトン
監修:巌谷國士
訳:巌谷國士、鈴木雅雄、谷川渥、星野守之
(河出書房新社・2002年6月30日・3,800円)

『魔術的建築』の可能性
――あるいは、非合理主義建築の存在意義――
                                                    藪下明博

本稿では「魔術的」という言葉の概念を、芸術の分野において直接的かつ総合的に論じたアンドレ・ブルトンとジェラール・ルグランとの共著になる『魔術的芸術』(※1)に倣い、その言葉の意味するところを明確化した上で、更にその派生的概念として掲げる「魔術的建築」についての可能性、あるいはその存在意義について、いくつか具体例を挙げて検証しようとするものである。

魔術的芸術の概念

「魔術的」という言葉の持つ印象は、今日では多かれ少なかれある種のいかがわしさと禁忌を伴った、俄かには信じがたい対象として捉えられるのが一般的ではないか。
なぜならば現代人のほとんどが(先進国と呼ばれる国を中心として)科学や合理主義に蔓延され、神秘主義的思想の信奉者はごく一部のものに限られるからである。
また「魔術的」という言葉そのものが、誰しも大雑把なイメージを抱くことは可能であっても、その意味するところは援用するものによって様々に変化するという事実もそれを助長している。必ずしも「魔術的」=「神秘主義的」と繋がるものではなく、この曖昧模糊として使用されてきた言葉の概念を固定化することは容易なことではない。
ましてや「魔術的建築」という概念に発展して捉えるならば、事態はいっそう闇の中に立ち入ってしまう。 
そこで、『魔術的芸術』の進行に従い、まずはノヴァーリスの言及する「魔術的芸術」に関する言葉を引用し、そこから「魔術的」なるものの概念を引き出す事から始めたい。

ノヴァーリスは、パラケルススやスウェーデンボリらの考察をもとに「われわれは宇宙のあらゆる部分とばかりではなく、未来、過去ともつながりを持っている」とし、その「関係を確証できるかどうかは、われわれの注意力と持続力しだいである」と述べた上で、かなり観念的ではあるにしろ「魔術」の概念を以下のように表現する。
「数学は法にしか、つまり法的な自然や法的な芸術にしか関与せず、けっして自然や芸術そのものにはかかわらない。自然や芸術が魔術的なものになるのは、ただ徳化されるかぎりにおいてである。愛こそが魔術を可能にする原理だ」と。
ここでいう「徳化」とは精神化の意味であり、「愛」とは精神化され純化された欲望のことだとブルトンは説明する。
つまるところ魔術を可能にするのもしないのも、われわれの考え方次第であって、何よりも深く純化し愛する欲望があってこそ、その効力が発揮されるというわけだ。

魔術と宗教の相違点

ブルトンは「魔術」の特殊な性格のひとつは「あくまでも拘束する」ということにあり、この拘束は「服従」を命じ、違反すれば制裁も余儀なくされる。その点で「宗教」とは根本的に区別されるのだ、と説明している。
一方「宗教」は「超越的な諸力の贖罪あるいは和解」を目指しているのであって、「魔術」が「命令」だとするならば「宗教」では「祈祷」がそれに当たるし、「魔術」が「反抗」を前提とするならば、「宗教」は「諦念」を前提とする。
あくまでも「魔術」は人間がその行為の主体であるのに対し、「宗教」は全能なる神が行為の主体なのだと。
しかしながらこれらを取り巻く状況は、その発生起源の不確かさや、儀式・行為に見られる共通性などから一見して識別されるものではない。
むしろ「魔術」と「宗教」は互いに錯綜して、厳格さを欠き、古代から現在に至るまで曖昧なままで連綿と引き継がれていると理解した方がいい。

アニミズムの原理

 
こうした人間主体の発想は、アニミズムの原理に基づくものである。パラケルススは「人間の中には、〈原型的存在〉の一要素、一植物、一尺度、一理性と照応しないような部分は何一つない」としているし、フロイトは「魔術はアニミズムの技術のもっとも原始的で最も重要な部分を構成している」と述べている。どうやら原始の人間たちは、観念の秩序を自然の秩序と取り違えており、観念を制御できる以上、同じように事物の秩序をも制御することが可能であると思っていたようだ。
レヴィ=ストロースは「煙をたいて雲と雨を呼び起こすという行為は、煙と雲との原初的な区別がまずあって、その両者を結び付けるために〈マナ〉に呼び掛けるのではなく、思考のより深いところで煙と雲が同一視されている」とし、「すべての魔術的行為はある合一性の回復に基礎を置いているが、その合一性は失われたものではなく、無意識的なものであるか、行為自体ほど十分に意識されていない」と、原始の人間が抱く魔術的な観念を説いている。
この論証不可能な説明に対する合理主義者たちの反論は想像に難くないが、詩や芸術の世界においてこれは既知のことであり、もしこれらが理解されないようであれば、とうの昔に想像力は消えていたとブルトンは証言している。

高等魔術の教義

また、エリファス・レヴィは、魔術は一つの教義しかなく、見えるものは見えない物の顕現であり、感じ取られ目に見える事柄の中には、感覚にはとらわれず目に見えない事柄と正確に比例する形で完全な〈言葉〉が存在するのだ、とする旨の発言をしている。
詩人や芸術家、あるいは魔術的行為の有効性を主張する者たちに共通するこの認識は、「叙情的認識」が「言葉」に与えた高度な、しかも伝達しにくい意味内容の上にあるという事実を忘れてはいけない。
ブルトンは、エリファス・レヴィの次のような挿話を示し、これに反論する本物の詩人・本物の芸術家も存在しないだろうと述べている。
「ある農夫が毎朝同じ時間に起きて、陽ののぼる前に家からずっと遠いところへ行き、同じ草を毎日1本ずつ摘むことをしたとすれば、彼はこの草を身につけることによって、数多くの奇跡を起こすことが可能であろう……。」
これは、魔術的価値を信じること、あるいは何者にも屈しない強い意志と信念があるならば不可能は存在しないという「魔術」の定理を表している。
なるほど「イワシの頭も信心から」ということわざの通り、緊張を解きほぐすために「人」という文字を掌に書き、それを三度口に運ぶという一種のお呪いは、たとえ無神論者であっても一度くらいは経験したことがあるに違いない。

魔術的芸術の定義

こうした「魔術的」な概念をもとに「芸術」の分野を改めて見直してみると、あらゆる芸術はその発生において「魔術的」である、とブルトンは断言する。
芸術作品というものは、たとえそれが純粋に「写実的」でありたいと望んだものであったとしても、必ず固有のいくつかの法則に従っているわけで(無意識という法則もしかり)、それが存在する限りにおいては(目的がどうであれ)、重要な部分は「魔術的」な法則に則っていると言う訳だ。
つまり広義において「魔術的芸術」という言葉は同義語の反復であり、この混乱を避けるならば「芸術を生んだ魔術をなんらかのかたちで自分から生みなおすような芸術だけを、とくに「魔術的芸術」と呼ぶ、とブルトンは結論付けている。

芸術と建築の相違点

このように『魔術的芸術』がとりもなおさず「芸術」を主体に論じられていることは重要な点であると筆者は考える。
ここでは「建築」を「もっとも利巧主義的な芸術」と注釈しているものの、ごく自然な形で「芸術」の一つに位置付けていることに注目したい。
絵画や彫刻などの純粋芸術(こう言う定義を鵜呑みにしていいかどうかは疑問だが)に比べて、建築が「建築」として独立して扱われるためには、そこに居住する目的(あるいは使用する目的)を果たす機能というものの介在がなくてはならない。少なくとも何がしかの機能を有さない建築は、「建築」としての存立価値を危うくするだろう。
一方で純粋芸術の方はどうかと言えば、何のことはない、こちらにも立派に機能というものが存在している。
古代人が残した壁画や土器の類から、中世における宗教画、土産売り場に置かれてある工芸品、破格の高値を付けられて売買される現代芸術まで、そこには魔術的な機能を有するかどうかは別として(その機能を発見できないものも含めて)、何らかの機能が存在しているのは明白な事である。
では一体、芸術と建築はどこが違うのだろうか?
自虐的に答えるならば、建築の経済性というものがその絶対的な差異として存在し、画家は一枚の作品を己の経済力で完成出来たとしても、建築家はクライアントの懐をあてにしなければ一つの建築をも完成させることが出来ない。
いや、話を本題へ戻すと、この差異は機能に含まれる「合理性」というものの強弱が、それを左右する絶対的な要素として君臨することだ。
土器は土器としての合理性を諮らずとも、また絵画は絵画としての合理性を諮らずとも芸術的真価を問われることはない。これは、もともとあった土器としての合理性は、芸術という観点から俯瞰した場合、まったくもって副次的な存在に過ぎないからである。
しかし建築においては、この「合理性」という価値が余りにも長いあいだ主役を演じてきたため、その真価を左右するまでの大きなファクターと化してしまった。
もし「建築」というものを、「機能」と「合理性」とを絶縁させるある点から俯瞰することが出来たとしたならば、そこにこそ「魔術的建築」という新たな視点が見いだせるのだ。

魔術的建築の分類

以上の観点から「魔術的芸術」という概念を踏まえた上で、「魔術的建築」の定義を次の3つに分類する。

a. 意図された魔術的建築(あるいは、有効性に直接結びついた魔術的建築)。
b. 意図せざる(または意図を失った)魔術的建築――直接的なもの(たとえば自然のままに見る建築)、間接的なもの(関心のありかが、他に移ることで魔術的価値を構築する建築)。
c. 意図されたものでも偶然のものでもない魔術的建築(あるいは、何ら合理的目的のない建築)

以下、この分類に沿っていくつか具体例を挙げて検証したい。

魔術的建築の実例

a. 意図された魔術的建築

あからさまに「魔術」を実践するために造られたであろうと思われる建築――たとえばストーンヘンジはその発生の謎はともかく、かなりの確率でそれにふさわしいと思われるのだが――に限らずとも、これらの建築は世界各国に数多く存在する。
バビロンのジッグラトは、天文学的観察の目的の前に、まずは雷の破片を受け止める容器であったと言われているし、「宗教」との区別は明確でなく、あるいは多くの部分が重複すると見られても、そこにアニミズム的思想の潜在が認められるならば、少なくともそれらは「魔術的」様相を呈していると言ってよいだろう。
もっと身近な例を挙げるとすれば、玄関先に飾られた「魔除けの魚の尻尾」を吊るした名もない民家や、五穀豊穣を願って、あるいは子宝の恵みや安産などを願って、戸袋に描かれた稚拙な「鏝絵」で飾られた建築などは、少なからず「魔術的」観念に支配された建築である。
また、かなり慎重に言及しなければならないが、「風水」からくる家相に基づいた建築なども、一旦はこれに当てはめることが出来るだろう。
バーナード・ルドルフスキーは『建築家なしの建築』において、名もない多くの土着的建築物を紹介しているが、そこには宗教以前の、あるいは宗教では解明しがたい「魔術的」な発想から生まれる多くの建築を紹介している。

b. 意図せざる魔術的建築。

エミール・ソルディ(※2)は氷河期より前、人間が熱帯、あるいは亜熱帯の気候に住んでいたと言う事実にもとづいて、森の中には氷河期の洞穴住居よりももっと古い建築物のモデル(樹上住居や草葺の屋根建築など)が常に存在していたとしている。
これは、古代人にとって森は〈マナ〉の比類のない容器であったとすることの裏付けと同時に、エジプト、あるいはギリシャ・ローマ神殿の装飾要素が、数々の森(植物)と太陽のアナロジーの表れであることとの一連の因果関係をも示している。
J・ハージーの『古典建築の失われた意味』でも、神殿というものは植物と生贄の象徴だと言及されていることは周知のとおりであろう。
また、これとは逆に深い地下の奥深くへといざなう「洞窟」は、種々のイニシエーション、擬似的埋葬、魔術的な儀式といったものを類推させる(ラビリントス、羨道墳、古代人の洞窟住居など……)。
これらは、その形態が示すとおり「医学的な意味での誕生と、思春期の儀式とを隔てている、生命の潜在的状態を象徴する」と、ブルトンは言う。
この両者は、それぞれ個別に姿を現すのではなく、多くの神殿がそうであったように、高くそびえる塔の下には同時に無限の地下迷宮が広がっている。
現代の目から見て、こうした意図せざる、あるいは意図を失った象徴性は結果的に二重の意味を持ち合わせた謎めいた存在と映る。
この不可解な魅力を表出させる力は、すなわち潜在的な「魔術」の力によるものなのだ。

c. 意図されたものでも偶然のものでもない魔術的建築。

意図されずに、あるいは何ら目的を持たずに人間が建築を創造するという事実を証明することは困難である。
しかし、郵便配達夫シュヴァルの「理想の宮殿」の場合は、「宮殿」と名のついているものの、それは「宮殿」とはほど遠く、住居でもなく、墓でもなく、これといった合理的な機能は何一つ存在しない、己の欲求の赴くままに創造された建築物なのだ。
シュヴァルはこの孤独で驚異的な作業を、誰から命令されるでもなく、見よう見まねの稚拙な技術だけを頼りに、三十数年という途方もない年月をかけて一人創造した。
ギリシャ神殿風、仏教的なパコダ風、城郭、牧人小屋、そして無数のアナモルフォーシス……。
この驚異の建築から発散されるエネルギーは、合理的均衡を伴った優等生的建築から発散されるそれとは比較にならないほど絶大なのである。
ほぼ時を同じくして、ガウディは「サグラダ・ファミリア贖罪聖堂」を着手しているが、職業建築家としてのガウディの仕事は、必ずしも「合理的機能」が存在しなかったわけではなく、この一点をだけを捉えてみても、ガウディはシュヴァルの「徳化」した精神には遠く及ばなかったと言えるのだ。
むしろ、シュヴァルに近いケースとして、日本における「岩窟ホテル」をぜひとも例に挙げたい。
こちらは高橋峯吉という百姓が、二十一年間にわたり一人で岩山を掘り続けた洞窟で、ホテルという名前が付いているものの実際はホテルでもなんでもない。
峯吉は幼少のころ、穴倉の中で自然発酵している野いちごを見つけ「醸造用冷蔵庫」を造ろうとしたのがそのきっかけで、以来生涯にわたって孤独に岩穴を掘ることに専念した。
周囲から「岩窟を掘っている」と揶揄されたことにインスパイアされて、次第に目的は変貌し、ついには三層建ての「岩窟ホテル高層館」という果てしのない欲望の顕現に行きつくのだ。
ここには、シュヴァルとの力量の差を比較する理由は何一つ見当たらない。どれだけ純粋に己の欲望を顕現しようとしたか、つまり、なにものにも屈しない「徳化」された「愛」が存在するかどうかが重要なのである。
この建築行為に対する情熱=「愛」は、とりもなおさずノヴァーリスが示唆した「魔術的」志向の根株をなすものであろう。
また、この見よう見まねの計り知れない情熱は、明治から大正にかけて数多く建てられた名も知れない工匠たちの手になる、「擬洋風建築」のそれとも深く通底していることをここに付け加えておきたい。


魔術的建築の展望

 
「魔術的建築」の流れが、要するに「機能」と「合理性」との隔絶へ進むと同時に、なによりも自己の内在する純粋な欲望の発露として展開することは、今後建築の主流をなすものとは考えにくい。
しかし、少なくてもそういう行為の可能性、あるいはその存在意義についてはここで示唆しておきたい。
本稿ではその序論にとどまるが、今後の建築史を俯瞰するうえで、より詳細な論考が期待される。
 

(以上、本文6,400字程度)



注記
※1:『魔術的芸術』(『L’art magique』初版、1957)は「芸術の諸形態」シリーズ(全五巻)の第一巻として、フランス図書クラブより限定版として刊行された。他は「宗教芸術」、「古典主義芸術」、「バロック芸術」、「芸術のための芸術」の四巻。その後、1991年に新装版(Paris,Phébus/Adam Biro,1991)が出版され、1997年には河出書房新社よりその新装版の全訳が出版された(巌谷國士訳・監修、鈴木雅雄、谷川渥、他訳)。
※2:エミール・ソルディ:『魔術的芸術』では、『聖なる言葉』(1897)の著者として紹介されているが不詳。なお『シュルレアリスムと絵画』(アンドレ・ブルトン、人文書院、1997)「打倒、悲惨主義!」では、ウジェーヌ・ソルディと表記されている。
主要参考文献
・『魔術的芸術』〈普及版〉(巌谷國士訳・監修、鈴木雅雄、谷川渥、他訳、河出書房新社、2002)
・『建築家なしの建築』(B・ルドルフスキー、渡辺武信訳、鹿島出版会、1984)
・『古典建築の失われた意味』(J・ハーシー、白井秀和訳、鹿島出版会、1993)
・『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(岡谷公二、作品社、1992)
・『幻想文学』48号「さざえ堂と岩窟ホテル」藪下明博(アトリエOCTA、1996)

伊藤家住宅.JPG
Fig.1
中瀬邸.JPG
Fig.2
吉見百穴.JPG
Fig.3
シュヴァルの理想宮.jpg
Fig.4
岩窟ホテル01.JPG
Fig.5
岩窟ホテル03.JPG
Fig.6
旧ロシア領事館.JPG
Fig.7
山科学校.JPG
Fig.8



図版説明
Fig.1:旧伊藤家住宅(神奈川県川崎市)
Fig.2:旧中瀬邸(静岡県賀茂郡松崎町)
Fig.3:吉見百穴(埼玉県比企郡吉見町)
Fig.4:理想の宮殿(フランス・ドローム県オートリーヴ、『魔術的芸術』より転載)
Fig.5:岩窟ホテル(埼玉県比企郡吉見町)
Fig.6:岩窟ホテル(同上、ペインティングが残っていた頃の写真、売店の額写真を複写)
Fig.7:旧ロシア領事館(北海道函館市)
Fig.8:旧岩科学校(静岡県賀茂郡松崎町)

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コメント 2

ヴェルデ

宗男議員は新しいブログをはじめられたのですね
ほわい?

シュヴァルのお城はヴェルデ父子がTVでみて感動のどつぼに落ちた理想郷です。いってみたい。写真を見ると何かアンコールワットっぽいような印象もうけますね。
そしてわしら親子は吉見百穴を訪れた記憶はあるのですが、岩窟ホテルは訪れていないと思う。痛恨の極み!こここそ和製シュヴァルの理想郷。

ガウディもすきなんですけども。あの手ひねりの陶器みたいな外観が。
by ヴェルデ (2013-08-11 01:40) 

あおい君と佐藤君と宗男議員

>ヴェルデ様
お久しぶりです。
こちらは、現代詩を中心としたものです。
お笑いはありません。(笑)
また、思いついたものを書きなぐったメモ帳のようなものです。
論理的に破たんしているものもあるかもしれません。
by あおい君と佐藤君と宗男議員 (2013-08-15 16:30) 

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