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魔術的現代詩③『黄泉幻記』 [魔術的現代詩]

エリファス・レヴィは『高等魔術の教理と祭儀』において、<想像力こそは、霊魂の眼のようなものであり、……幻影を映し出す鏡、魔術的生命を生み出す装置である>と、述べている。
また、<想像力は「言」の適用の道具である>とも述べ、完璧な「言葉」は、目で感知できる事物と目に見えない事物とぴったり重なり合っていると断言している。

つまり完璧な「言葉」とは、一つの原理・真理・条理によって発せられるもので、それをなすためには目に見えないものを、目で見ることを可能とする、想像力が欠かせないというわけだ。


黄泉幻記.jpg
『黄泉幻記』
林美脉子
(書肆山田・2013年5月20日・2,500円)


想像力という観点から見た場合、本詩集は、読者にとって多くの想像力を掻き立てる詩集といえる。
言葉そのものが安易に選択されるのではなく、必然的に、おそらく詩人の内部から自発的に発せられた言葉の記述と見てよいだろう。
したがって、単純に詩人の意図通りに読者を誘引する内容にはなっていない。
読者によっては、読後感の印象がばらばらで、時に難解だと印象付けられる結果となる。

しかし、その難解さ(あいまいさではない)こそが、想像力を掻き立てる重要な装置であることも確かである。
読者自らが想像しない限り、本書からは何も感じられない。
詩人の境地を探るには、読者がそれぞれに想像力を高めない限り、そこに近づくことは許されない。
それこそが、本詩集のもっとも重要なファクターである。



胸冥く迷妄の界 陥とうべなえば バシリカ陪審のひたす氷音が毛深い幼年の河口を溢れはじめて 明け暮れて涙する凜風二月の闇が広がる (凍沱の河口)



この詩語におけるイメージの享受は、読者それぞれに果せられた課題である。
いかに想像するか?
読者はこの困難な作業を、興味深く、真摯に、この上なく愉悦の時間として体現する。
想像力の持つ最大限の魅力が、読むという行為の中に導かれるというわけだ。



眠りのうらのあおい稜線を
めの化石数える渚の母がひとりいて
私の内なる肉の領土に
あらたなる国境が熟し始めた(非の渚)


夜の来ない砂丘の陰で幽明が溶けはじめ 人知の底の爆破を狙う黒衣の密偵が 怪しく潜む 実在の結界が息苦しく潰れてくる しかし 日没はいつまでたっても やって 来ない(黄泉幻記)



言葉は一つの原理から発せられるとしても、ここに様々な解釈が寄せられるのも事実である。
読者は、あくまでも詩人の心情と同一ではないからだ。
百人の読者がいれば、百人の解釈がある。
……いや、しかしこれは本当だろうか?

少なくともこの詩語が成り立つ背景には、言葉のもつ必然性が隠されている。
それが、どこまで完璧にとらえられるかは、読者の想像力に左右される。

作者はこの詩集に収めた作品は、すべて自身のドキュメントであることを告白している。
真実であるか否かは問題視されない。
魔術的な詩とは、この同一性への探求に、十分な魅力を持った詩であるとも換言できる。









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